2年前に読んだ「甘えの構造」の注釈として書かれた本ですが、エッセイのように読めます。それでもむずかしそうと思う人には、昨年読んだ「『甘え』と日本人」からのほうが入りやすいかもしれません。
「甘え」の感情は日々の言葉と共にわたしたちの生活の中に、普通にある。
相手の好意を失いたくないので、そして今後も末永く甘えさせてほしいと思うので、日本人は「すまない」という言葉を頻発すると考えられるのである。
(32ページ 甘えの語彙 より)
義理も人情も甘えに深く根ざしている。要約すれば、人情を強調することは、甘えを肯定することであり、相手の甘えに対する感受性を奨励することである。これにひきかえ義理を強調することは、甘えによって結ばれた人間関係の維持を賞揚することである。
(36ページ 義理と人情 より)
両者をつなぐものこそ「甘え」概念に他ならないが、ここでいう「甘え」は情緒として実際に体験される「甘え」ではなく、もし事情が許せば、情緒としての「甘え」に結実するであろうごとき無意識の欲求をさしているのである。
(123ページ 第四章 大意・冒頭の解説文 より)
ここでヒステリーという言葉について一言説明すると、それは行動の動機が周囲の気を引くことに存し、周囲の動向に敏感に反応しながら、しばしば極端な手段に出ることを指していう。このような態度は、周囲の注意を一身に集めようとするところから、ふつう自己中心的と形容されるが、しかしこれは「自分がある、ない」という意味で自分があってのことではなく、そのようにしないと自己の存在が認められないからである。
(173ページ 自分がない より)
海外で「なにが sorry なの?」と言われた経験をもつ日本人は多いと思うのですが、この本の著者さんもこの「甘え」の研究のきっかけにそれを挙げていました。わたしはこの本を読んで、グローバル化への対応を目的とした英語の勉強はピンとこないけど、義理人情浪花節からの脱却のためという視点ではいいかもしれないと思うようになりました。まあ義理人情まではいいと思うんですけどね。浪花節がなぁ…。
この本には夏目漱石の「坊っちゃん」「こころ」などが多数引用されており、夏目漱石の小説が好きな人には、「この視点で読むとそうなるかぁ」という楽しみがいっぱいあります。愛を受ける側でありたいと願いながら、そこには感謝と恥が伴うという複雑な心理を「坊っちゃん」のなかの「山嵐にかき氷を奢ってもらったけど問題」を例に展開します。
そのまえに受身的愛を望む気持ちから説明が始まるので、そこから少し紹介します。
西洋的自由の観念が甘えの否定の上に成り立っていることを示すものとしてはいろいろな論じ方があるであろうが、私は以下にまずルネッサンス頃に活躍した学者 Juan Luis Vives(1492-1540)がのべたという次のような一節を引用したい。「受身的愛、すなわち愛を受ける側でありたいという傾向は感謝を生ずる。ところが感謝は常に混り合っている。恥はまた当然感謝の念を妨げるであろう。」私はたまたまこの一節をズィンボルグの精神医学史の中で読んだ時、すぐさま日本語の「すまない」を思い浮べた。
(中略)
西洋人はどうやら Vives の言葉に見られるように、感謝は恥を伴い、その恥はまた感謝の念を妨げると考えるらしい。
(102ページ 甘えと自由 より)
これが書かれた後に、夏目漱石「坊っちゃん」(この本では「坊ちゃん」)の「氷水もんだい」の事例に移っていきます。
(この流れ、おもしろいです!)
↓
この点を例示するものとして以前から興味を持っている漱石の作品の中から、特に「坊ちゃん」の場合を取り上げて論じてみよう。坊ちゃんは互いにもたれあって生きている人々の中にあって、ひとり恥じ入ったり恐縮したりすることなく、堂々と己が自由を主張して生きている。そのさまは、彼がまさに個人の自由という明治の新しい空気を吸った人間であることを証明するが、しかしその彼も赤シャツの中傷にかどわかされると、最初信頼していた山嵐を簡単に疑ってしまい、以前氷水を奢られた時の代金一銭五厘を無理矢理山嵐に返さずにはおれなくなる。
(以後、この氷水場面の引用。そのあと)
ここで注目すべきことは、「無位無官でも一人前の独立した人間だ」と個人の自由に目覚めている坊ちゃんが、感謝という行為の意味と懸命に格闘している姿である。
(中略)
西洋人の感謝の表現は一般にさっぱりしていて、後腐れがない。彼らは「サンキュー」といえばそれで「済む」ので、日本人のようにいつまでも「済まない」感情が残るわけではないからである。
そもそも「恩を売る」という言葉があるくらいなので、売れると思っている。相手が買ったことになると定義しているおそろしさ。わたしが「親切をためらう」のは、ここだったりする。
「坊ちゃん」にある関係については、末尾に付録のように収録されている【「甘え」再考】のなかにもちょこっと例としてあげられています。
(以下235ページ 「甘え」と同一化 より)
なお「甘え」と同一化が同じものであるとすると、説明が便利になる例を一つあげておこう。親子の関係で(それ以外の関係でも妥当することだが)親が子を甘やかすと、子は甘えた風を見せても、本当は親に甘えられなくなる。それは甘やかす方が相手に甘える関係になるからであるが、このことは勘のいい人にはわかっても、一般にはわかりにくいかもしれない。しかし甘やかす者は相手と同一化しているといえば、もっともわかりやすいであろう。いいかえれば甘やかす者は相手の同一化を先取り(preempt)してしまう。だから相手は甘やかすものには同一化できない、したがって甘えられなくなるのである。この点は漱石の「坊ちゃん」において坊ちゃんの清に対する関係を見れば明らかであろう。
トイレにある「いつもキレイにお使いいただきありがとうございます」に似たことかな。
「こころ」も分解されております。
(以下150ページ 同性愛的感情 より)
「先生」のKに対する友情の中には同情とか尊敬の念なども含まれていたが、これはたしかによきものである。では何がこの友情を毒したのか。それは「先生」のKに対する甘えではなかったのか。甘え故に「先生」はKが自分をおきざりにしたと感じた時、Kに復讐したのである。同じように、「私」の「先生」に対する傾倒の中にも甘えとは別に何ものかを学びとろうとする真剣な態度が含まれていた。これはよきものであり、であればこそ「先生」は最後に自分の惨憺たる真実を「私」に開示することができたといえる。しかし「先生」は「私」の甘えが我慢ならなかった。「先生」は自分の経験からこの甘えが容易に憎しみに変ることを知っていたからである。
(中略)
フロイドの場合も漱石の場合も、同性愛的感情を甘えとおきかえると、この二人の思想は大体次のように要約されるであろう。甘えの挫折ないし葛藤は種々の精神的障害を引き起こす。仮に、甘えが恋愛・友情もしくは師弟愛という形で満足されたとしても安心はできない。満足は一時のことで必ず幻滅に終るであろう。
わたしは「ホモソーシャル的・俺ら愛」と呼んでいるのですが、まあ崇高に分解するとこうなるのかと思って興味深く読みました。
この本では西洋も流れは違っても結局やることは同じになる例として、日本の企業の不祥事への対応とニュー・レフトの精神を「罪悪感」で紐付けて語られます。
(以下210ページ 連多感・罪悪感・被害者意識 より)
ニュー・レフトの活動家たちは自分たちにも、喩え話の中の祭司やレビ人のごとく、被害者を見て見ぬふりとしたい気持が潜んでいることを認める。彼らはこのことは加害者に加担するのと同じことであり、また自己の特権的存在に安住することであると分析する。ここまではキリスト教の喩えの精神と全く同じであるが問題はその次である。
すなわちここで彼らは素早く否定の理論によって自己の特権を否定するのであるが、ではそうすることによってよきサマリア人のごとく被害者を実際に助けるための手を打つかというと、そうではない。彼らは却って被害者と同一化してしまうのである。
わたしがジョン・レノンのピースフルなタイプの歌詞(ホワイト・アルバム以降)やそれに心酔する気持ち全般に感じる不思議さを説明してくれている本にはじめて出会った。
いま読むとちょっと決め付け口調が強い印象を受けますが、そこにジェネレーション・ギャップを感じることもまた自己を見つめる機会になる、そういう本でした。