初夏の三四郎読書会で、「広田先生にまったく感情移入できない。キャラクターに魅力を感じない」というかたがいらっしゃいました。
理由に「ダサい。どんくさい。」というのがあって、関西弁だとすごくおもしろく響く(関西開催でした)。
夏目漱石の作品には、哲学者のようにちょっと達観したかのようなスタンスであれこれいう役の人がよく登場します。なかでもセリフでいうと三四郎の広田先生は格別におもしろい人物で、インドのシャンカラみたいです。
でも、たしかにダサいのです。ご指摘のSさんいわく
ダサいじゃないですか。
馬のこととか(正門内で馬に不恰好な体勢にされて、喜多床の職人に笑われたエピソードのこと)、どんくさいじゃないですか。
ほかの人が言うことなら素直に聞けるところが、広田先生だからダメ。
与次郎の「偉大なる暗闇」の作戦が失敗した後に三四郎に言うセリフも。
普段は達観しているようなことをいっておきながら、「やっぱこいつちっちゃい!」と思いました。
(↓ここです。与次郎についてフォローを入れる三四郎に対する広田先生)
三四郎「まったく先生のためを思ったからです。悪気じゃないです」
広田先生「悪気でやられてたまるものか。第一ぼくのために運動をするものがさ、ぼくの意向も聞かないで、かってな方法を講じたりかってな方針を立てたひには、最初からぼくの存在を愚弄していると同じことじゃないか。存在を無視されているほうが、どのくらい体面を保つにつごうがいいかしれやしない」
「どのくらい体面を保つにつごうがいいか」って! と、Sさん。
ほかのかたも「容赦ないですねぇ」と。明るく淡々と進む。
たしかにここは、ひとつの見せ場であるよな…と思う場面。夏目漱石のほかの小説では、哲学者風のキャラクターはあまりボロを出さずには終わることが多いので、広田先生のこのダサさは格別のおもしろさ。
Sさんのお話をうかがいながら、わたしの感覚もお伝えしたくなりました。
わたしは、広田先生の口から思想として出てくる言葉はすごく好きなんですけど
「いうてもロリコンでヘビースモーカーのおっさんなんだよな…」
という気持ちも同時にあります。
40歳ですけどね、広田先生。ちょっとリアルに想像すると、こわいんですよねいろいろ。
昔の小説って、こういうところがおもしろい。特に三四郎は冒頭から「弁当箱のコント」「いくじなしボーイのコント」もあるし。間違いなく名作なんだけど…、と思うときの「なんだけど…」のネタが多すぎる。
参加している人がいろいろなことをなかったことにせず、笑いと反省が同量で進行する不思議な時間。ここ数年、ヨガでは特にわかりやすさを約束できないとイベントを成立させにくい環境になっているのに、こういう話ができる人といきなり会えるのは、とてもありがたいことです。
(小さなお知らせを目ざとく見つけておいでくださったみなさん、ありがとうございました)
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