うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「甘え」と日本人 土居健郎・齋藤孝 著


甘えの構造」の著者・土居健郎さんが83歳のときに対談したコメントが収められていて、どこまでも頭がクールだなぁ、とゾクゾクする言葉が満載でした。
最後の第六章の対談でこのように語られています。

土居:言葉の構造が主語を言わなくてもわかるように日本語はできている。それが日本文化の一つの特徴ですよね。なんとかして橋を渡していこうという感じは常にあります。アメリカのほうが対決姿勢を強く出しますね。
齋藤:それが「気」の感知力のほうに繊細にいけばいいほうにいきますし、まずいほうにいけば、要するに誰も責任を取らない体制になってしまう。

この本は言語非言語コミュニケーションを掘り下げる内容で、夏目漱石の文章が題材に登場します。


夏目漱石書簡 和辻哲郎宛】が紹介されているのですが、このラストが思いっきり「こころ」の先生とKのブレンド

 私は今道に入らうと心掛けてゐます。たとひ漠然たる言葉にせよ道に入らうと心掛けるものは冷淡ではありません、冷淡で道に入れるものはありません。
 私はあなたを悪(にく)んではゐませんでした、然しあなたを好いてもゐませんでした。然しあなたが私を好いてゐると自白されると同時に私もあなたを好くやうになりました。是は頭の論理で同時にハートの論理であります。御世辞ではありません事実です。だから其事実丈で満足して下さい。
 私の処へセンチメンタルな手紙をよこすものが時々あります。私は寧ろそれを叱るやうにします。それで其人が自分を離れゝば已(やむ)を得ないと考へます、が、もし離れない以上私のいふ事は双方の為に未来で役に立つと信じてゐます。あなたの手紙に対してもすぐ返事を出さうかと思ひましたが、すこしほとぼりをさます方がよからうと思つて今迄延ばして置きました。

「先生」も「K」も、どっちもあって、そのうえで「だから其事実丈で満足して下さい」ということほどセンチメンタルなものはないのだけど、「愛嬌を示さないといけない支配関係」にまっすぐに向き合い、未来で役に立つと信じるグル精神。ここはズシーンときた。
この本で「甘え」と「おんぶ」について語られる対談のなかに、同じく漱石の「夢十夜」の「第三夜」も紹介されていました。「第三夜」は江戸川乱歩の変態モノと同じくらいこわい作品ですが、わたしは親子関係の呪いの感覚に、イメージとしては共感するところがあります。



言葉がないと認識できないということについても『「甘え」という言葉が開く多彩な世界像』というトピック以降でたくさん語られているのですが、以下の箇所はうなずくばかり。

<第五章 「甘え」が生み出す身体感覚 土居健郎 齋藤孝 / エネルギーをぶつけ合う人間関係がない より>
齋藤:自分の中の「気」というエネルギーの感覚に関してもちょっと無関心で、「むかつく」という言葉も、疲れたのとエネルギーが余っているのと区別がつかないまま口にしているような状態ですね。

んだ、んだ。



わたしは「第二章 「甘え」を喪失した時代 土居健郎」で土居先生が語っている、ここはとてもインド的なアプローチと感じます。

<「甘え」が「妬み」を抑止する より>
 妬みというのは、それ自体ちょっと困った感情ですが、しかしこれは自然の感情です。ですから妬みに負けてはならないけれど、自分の中にある妬みを認めることはしなくてはならない。妬みを超越して感じなくなるなんていうことは、人間にはまずできないことでしょう。

この部分以降がたいへん深い読みどころ。気になる人はぜひ手にして読んでみてください。



わたしはインド思想を学ぶとき、いつも「よくこれだけ細かな心情にいちいち単語があるもんだ!」と思うのですが、日本語にもいくつか独特のものがあって、「やさぐれる」「ふてくされる」など行動に結びつく心理をあらわす言葉があります。サンスクリット語は分解する細かさに対応しやすく、日本語は感情を反映した行為を示す語がある。ヨーガを学べば学ぶほど「日本語で思考する自分」「日本語に育てられたわたしのこころ」を意識することが多くなる。ここから逃げているといつまでも先に進めない。
この本を読むと「なぜインド哲学の学びのテキストに夏目漱石作品を使うのか」ということも、わかる人にはわかってもらえそう。そういう本でした。(大変おすすめ!)


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