先日あるヨギさんが「ところで、うちこさんが最近よく感想を書いている、夏目漱石」と切り出してくれて、うれしかった。そこでも「こころ」の話をした。読み終えたのは少し前だったのだけど、これはどうしたものやらと、感想を書けずにいました。ひとことでいうと、「大乗も小乗もつらいよ」という話です。要約しすぎか。
世が世になるとものの見え方が変わる。最近はこれをボーイズ・ラブの小説とする見かたもあるらしい。……わかる。図書館のシーンだよね。わかる。と思いつつ、わたしはこの本を読んで、これはもろにサーンキヤ・ヨーガの分解じゃないかと10回くらい思いました。
大人になってから「こころ」を読んでいない人は、ぜひこの先を読む前に小説のほうを読んで欲しいな。
今日の感想はすごくヨーガに寄せた書き方をするから。
わたしはこの小説を、途中からこんな視点で読んでいました。
(主な登場人物について)
この小説の「先生」と「K」は新潟県出身という設定です。そして「K」は真宗の坊さんの子です。
わたしはこの物語に秘められた「思想の力」を説くメッセージの重みに、動けなくなりそうな気持ちになりました。
悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか
先生が、こんなことを話すのがその複線です。
どんなにすばらしい教えを知っていても、本人自身が偉くなければ、偉くないというようなことを先生が吐露する場面があり、この「実践信仰」の一貫性がおそろしくヨーガ的です。そしてその「実践信仰」の言葉の力によって人を死に追いやったと、先生は悔やむのです。
この小説は「バガヴァッド・ギーター」と「歎異抄」を同時に思わせる、恐るべき作品。
どんなに素晴らしい教えも、そのときにならないと感じられないことがある。
わたしは学校の授業で、なんにも感じてなかったなぁ。
この物語の中で、「先生」という思想家の語る言葉は名セリフばかりなのですが、わたしは先生が「人間」らしく話すセリフの中の、これがズシンときました。
- とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ
- 頭というのはあまりに冷やか過ぎるから、私は胸といい直したい
- おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ
- 自由と独立と己とに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう
名セリフのオンパレード。アキラもガンダムも豆粒に見えてしまう。
「自然」と「人間」の間を主体が行ったり来たりするこの表現も、のけぞる。
青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。
これぞプルシャの多様性。
思いっきり自分の殻から語る表現もたまらない。まるで乙女心。
それでこの物足りない返事が少し私の自信を傷めた。
前半の「私」の先生へのあこがれは、本当に「あこがれ」というものをそのまま描いていると思う。
先生と同じようになってしまったらきっと苦しい。わかっているけど追いかけたくなる、あの感じ。
他(ひと)の懐かしみに応じない先生は、他を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。
懐かしみと軽蔑という表現が一文の中に編まれるこの技量。すごい。
そして本当に「私」の思うとおりで
私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。
と先生はおっしゃる。
そんな先生は、ヨーガの危険性を説く。
これはとくにあなたのために付け足しておきたいのですから聞いて下さい。肉体なり精神なりすべて我々の能力は、外部の刺戟で、発達もするし、破壊されもするでしょうが、どっちにしても刺戟を段々に強くする必要のあるのは無論ですから、よく考えないと、非常に険悪な方向へむいて進んで行きながら、自分はもちろん傍(はた)のものも気が付かずにいる恐れが生じてきます。
(中略)
Kは私より偉大な男でしたけれども、全くここに気が付いていなかったのです。ただ困難に慣れてしまえば、しまいにその困難は何でもなくなるものだと極(き)めていたらしいのです。艱苦を繰り返せば、繰り返すというだけの功徳で、その艱苦が気にかからなくなる時機に邂逅(めぐ)りあえるものと信じ切っていたらしいのです。
わたしはこの記述が出てくる前まで、おおむね「先生」に自分を重ねながら読んでいたのだけど、この指摘を受けたときは自分が「K」だと感じた。「繰り返すというだけの功徳」なんてないよと言われて目が覚める。
ヨーガの効用も説く。
こんな風にして歩いていると、暑さと疲労とで自然身体の調子が狂って来るものです。もっとも病気とは違います。急に他(ひと)の身体の中へ、自分の霊魂が宿替えをしたような気分になるのです。
大人の遠足のこと。先生は、わかっているの。
練習しても練習しても、
私は、私の眼、私の心、私の身体、すべて私という名の付くものを五分の隙間もないように用意して、Kに向ったのです。
いざとなったらまた元に戻る境地も説く。
わたしは「こころ」にまつわる、この3つの表現が鮮明に焼きついた。
「平素の弾力」「不自然な暴力」「習慣の奴隷」
平素の弾力を失ってしまうとき、不自然な暴力(自殺のこと)をふるいたくなるとき、習慣の奴隷であることを認識するとき。自由について考えるとき、自由を得たいというならば必ずや向き合うことになる、この感情。
真に受けるとダメージが強すぎる。わたしは、先生が「私」に出会ってとりもどした小さな光に目を向けたい。
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたのためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの力がないんだから。あなたは外の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」
先生はこういって淋しい笑い方をした。
この部分の切なさは、読まねばわかるまい。わたしが先日「強く誘わない理由」を書くに至ったきっかけはここ。
真面目という言葉に託された希望は、二度出てくる。
「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いいから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか。」
「私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。」
どさくさにまぎれて失礼なフレーズがツッコミどころではあるのだが、ここのたたみかけは涙が出るよ。そして文体がサラダ記念日の倒置。すごい威力。
夏目漱石の小説を読みはじめてから、「男性が女々しくなくなったらこの世はおしまい」とすら思うようになった。
私は女らしかったのかも知れません。今の青年のあなたがたから見たらなおそう見えるでしょう。しかしその頃ころの私たちは大抵そんなものだったのです。
この異常に染み入る綴りの羅列はなんだろう。昭和のフォークソングっぽい。
ずっとひっかかる、違和感があるから離れられないリズム。まるで自分が語ったことのように感じさせる、文章の力。
こういう感情のひだを味わい、ぎゅーんとなる気持ちに息苦しくなることを昔の人もしてきたんだろうにねぇ。なんでこんなに世の中が勧善懲悪化してるんだろ。(←というボヤキすらすでに「坊ちゃん」で漱石先生が描いてる)
夏目漱石という人は、一体どこまで見えていた人なのだろう。
▼青空文庫さまさま