この小説の中で、主人公は低俗な感情で行動する自身を「好奇獣」といっています。
超短編であまり有名ではないけれど、この小説は夏目漱石小説の中で「探偵」という表現で出てくる感情を掘り下げていておもしろいです。わざわざ探偵して攻撃の糸口を見つけてよろこぶ、あの感情に似たなにか。とりたてて書くほどのことでもないのだけど、書くと嫌がる人が多い、おもしろい感情。
わたしは、漱石グルジは「性悪説を経ない性善説には、そもそも限界があるでしょ?」ということを、あの手この手で古くから指摘していた人と思っているので、この短編はすごく示唆に富んでいるように見えました。
「真面目」という日本語についても、このように説く。
滑稽とか真面目とか云うのは相手と場合によって変化する事で、高飛びその物が滑稽とは理由のない言草である。女がテニスをしているところへこっちが飛び上がったから滑稽にもなるが、ロメオがジュリエットを見るために飛び上ったって滑稽にはならない。
滑稽の裏には真面目がくっついている。大笑の奥には熱涙が潜んでいる。雑談(じょうだん)の底には啾々(しゅうしゅう)たる鬼哭(きこく)が聞える。
後者の表現は「吾輩は猫である」にあった「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」を思い出させる。
低俗な感情については、こんなふうに語られる。
この日における余は平生のような同情的動物ではない。全く冷静な好奇獣とも称すべき代物に化していた。人間もその日その日で色々になる。悪人になった翌日は善男に変じ、小人の昼の後に君子の夜がくる。あの男の性格はなどと手にとったように吹聴する先生があるがあれは利口の馬鹿と云うものでその日その日の自己を研究する能力さえないから、こんな傍若無人の囈語(げいご)を吐いて独りで恐悦(きょうえつ)がるのである。
「その日その日の自己」って、そうなんだよなぁ。わたしは「いい人」「悪い人じゃない」などの表現する人を見ると、だめだこりゃ。という気分になる。その人のその瞬間が「だめだこりゃ」なだけなのに、印象をなかなか更新できない。
草枕の冒頭ではボヤく限りであったことも、処世術のレベルにとどまらず実利論のように語られるのがよいです。
人間はどこかに泥棒的分子がないと成功はしない。紳士も結構には相違ないが、紳士の体面を傷つけざる範囲内において泥棒根性を発揮せんとせっかくの紳士が紳士として通用しなくなる。泥棒気のない純粋の紳士は大抵行き倒れになるそうだ。
「せっかくの紳士が紳士として通用しなくなる」って! 紳士じゃなくても沁みるわ〜。
そして
どんな事でも思い返すと相当のジャスチフィケーションはある者だ。悪るかったと気がついたら黙坐して思い返すに限る。
自己正当化を思い返させてくれる作品です。
この小説はあまり有名ではないけれど、短編の中でそういう反省のようなものを促してくれるところがあります。まえに書いた「なぜ周辺情報を求めてしまうのか」にもつながる。
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