うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

苦しみと強さ、悲しみとやさしさ

「自分を知りたい」というのは、みんなに共通することで、なので自己啓発本が売れるのだと思うのですが、なんだか「もっといい自分」を信じすぎ、探しすぎじゃないかと思うことがあります。
ヨーガは「あなたの持っている美しさや強さは使われていないだけで、開発したらもっと出てくるもの」というストーリーに乗せやすい。いっけんとても、人生に役立ちそうです。



苦しみを克服したら、強くなれるのでしょう。たぶんそうです。強くなったら多くの人を救えるかもしれないけれど、まだわたしには「自分的にオッケーになるゴール」しか想像できません。なんだか、それっきりなのです。縦軸どまり。



わたしは横軸に、「かなしみ」があるように思います。苦しみも悲しみも悔しみもエゴだと、修行の人たちはいいます。それがじょうずな喩えや教えに乗って、「悲しみの受け容れ方」がメソッドのように展開する。それが、宗教なのかな、と思っていました。でも、それが教えに落とし込まれてマーケットへ飛び出すときは「苦しみの克服」のほうが売れるから、そうなることが多い。


悲しみを知ることで、やさしくなれる。横軸はそういうことではないかな。奥行き、でしょうか。
「苦しい」と「悲しい」は区別がつきにくいのだけど、克服すべき対象や想定する敵がまったく見えないときに、むりやり対象を絞り込もうとせずにじっと考えてみると、それはやっぱり「自然」が相手。抗えない。
人の心も体も自然のひとつ。半分は苦しみ、半分は悲しみととらえたら、強がりや誹謗中傷がもう少し減るように思うのです。わたしたちは、悲しむ感度が弱くなっているのかもしれません。宗教のとらえ方は人それぞれだけど、これまでのわたしは少し「苦しみの克服」へ視点の比重が偏っていたように思います。



乗り越えていくぞ! という絶対積極は素晴らしい教えです。
でも、悲しむときに、しっかり悲しむという段階をいきなり超えて、いいのかな。悲しむことは地味な行ないなのだけど、これを「ヨガ的じゃない」といってしまうのだとしたら、ヨガも厄介。



なんでこんなことを思うようになったかというと、いくつかのきっかけがあったのですが、ひとつは最近仲良くなった仕事仲間からの相談です。「忘れたい」というのが口癖で、自分でもそれが気になっているそうです。
海外で生活していたことがある人なので、先の相談から展開して「日本には、懺悔をする場所がない」という話になりました。実際ないわけではないのでしょうが、すぐには思い浮かばない。



もうひとつは、イスラームの教えに触れたこと。なんだこのやさしい宗教は! と、イメージを覆された。苦しみと悲しみの歴史が法になって、苦しみかたや悲しみかたがわからなくなっても大丈夫なように、混乱すらも想定した設計に見える。



苦しみも悲しみも自分のなかから発現するものなのに、メディアで目にする情報には、「敵の設定の仕方」「正しい敵のとらえ方」が織り込まれていることがある。感じる前に、考える前にインプットされる。
まずはただ、悲しんでみる。そのほうが、自分のなかにあるやさしさを見つけやすい気がします。能力を開発するにも、それを動かす力がいる。悲しむ感度と似た力。これはやってみると、案外むずかしい。
いいことばが出てこなくても、敵のとらえ方がじょうずになるよりは、じっと静かに悲しめるほうが強いのかもしれません。
バランスの偏りがどこにあるのかと考えたときに、潜在意識がどうこうということを語り出すと興味は尽きないのだけど、「知ってどうなる」。それでも夢には出て来る。潜在意識って、そういうもんです。なんのパラドックスなのか自分でもよくわからないのですが、意識をコントロールできてしまうのはいいことなのかと、立ち止まる。



「悲しみと仲良くなってみせる」って、宣言している歌があったなぁ。
これがめぞん一刻の主題歌だったのは、とてもいい感じだった。
(久しぶりに聴きたくなったかたへ)