今年の春分の日は満月でした。そして年度末。今年は年号も変わります。特に自分の人生に大きな変化やイベントのない人でも、この時期は自身の中にざわめきを感じる人が多いだろうなと思い、今年はこの日のために考えたメニューでヨガクラスを開催しました。
今日は、そのときにお伝えしたことをさらに掘り下げて書きます。
わたしは春になると、気温が上がって骨盤が緩んでくるなどの身体の変化のほかに、着る服や環境・対人関係などの変化を外の体「世間体」として認識するようにしています。肉体の外も身体の延長線上にあるものと考えています。
日本の教育・社会 ・価値観の中で大人になるまで生きてきて、ヨガはOLのストレス解消! なんて感じで始めたものでしたが、何年も続けていく中こんなふうに考えるようになりました。
2年前に、このことについて少し書いています。
合掌とシャーンティ
今日書くことは「合掌」についてです。この形にもムドラー(印・形相)として名前がついているようです。アンジャリ・ムドラー。訳すと合掌印(そのまま!)。
わたしたちは神社やお寺へ行かなくてもご飯を食べるときに手を合わせるので、この所作自体に「敬意・感謝」「祈り・祈念」の意識を重ねることに慣れていると思うのですが、「鎮魂」の気持ちとなるとちょっと大きすぎるというか、身近に感じていないところもあるかと思います。わたしは、そうでした。
それが、ここ数年毎年のように起こる大きな自然災害や正義の争いごとを見ながらヨガの練習をするなかで、omのあとに「shanti(シャーンティ)」と三回唱える意味が総合的に沁みるようになってきました。
- 「きっと○○にちがいない」などと心配する「内なるもの」(adhyatmika)
- 外部要因や自分以外の生き物によってもたらされる「外なるもの」(adhibhautika)
- 自然災害など人知の及ばない「神聖なもの」(adhidaivika)
( 参考:苦しみは3種類ある)
この三つの苦しみの中で、はじめの二つの平穏(内と外)について以前よりも細かく分解するようになりました。ときどき起こる、自分はなんでこんな発言をしたのだろうということも、掘り下げないと自分の中で火だるまになってしまう。自分で掘り下げることによって、混乱時にさらに燃料を投下しないように気をつけることができます。
誰かなんとかしてくれないかな…と考えることは、内なる苦しみを外なるものの苦しみにあずけている感覚。なので、まずは自分で自分を鎮めようとしてみる。鎮魂です。これは、なかなかむずかしいことです。
おまじないの所作の理由
そんなこんなの思いがあって、春分の日のヨガクラスではわたしがやっているおまじないのような所作を紹介しました。
チャラカ・サンヒターという書物(インドの医学書)に、こんな節があります。
この世とあの世での幸福を望む人は、意識と言語と身体に関する、乱暴で不快な行為の衝動を抑えなければならない。
(7-26)
身・口・意を整えるという道徳教育的なニュアンスよりも、シンプルに幸福を望むならと指し示してくれるこの節がわたしはすごく好きです。
おまじないの所作
この三か所に手を置いて、自分に話しかけます。意識を向けることは、自分へのほどこし。
- 胸:感じる気持ちは、どう? 無知なだけで、無駄にびびってない?
- 口:言葉を選ぶ余裕はある? なにか口走っちゃったりしそうな危険性はない?
- 頭:思考は、ネガティブな印象に記憶を紐づけて悪い方向に培養してない?
わたしは自分に、こんなふうに話しかけます。心がざわついているときというのはなんだか漠然としているので、こんな感じで話しかけます。おでかけ前の戸締りのようにちょっと確認してみる。
ちょっとでいいんです。一か所2秒でも、三か所で6秒になります。(アンガー・マネジメントでは、怒りのピークは6秒だからそこをなんとかコントロールすべし、とされているそうですよ!)
わたしは社会・人間関係の中での信用も自分を包む衣服のようなものだと思っていて、それは年齢を重ねるごとに意識する機会が増えるし、これからも増えていくだろ
うと思っています。そういう方向へ、人間社会のムードが変わっているから。
ヨガの練習では怪我をしてこなかったわたしですが、社会の中での怪我はある。若さゆえともいえないときは誰にでもやってくる。なのでこうして、おまじないの力を借りたりしています。
(もちろんこういう話をするクラスの前には「今日はちょっとスピリチュアルな話をしますが、帰りに水とか石とか珠数とか壺とかセミナーの案内が並んでいるなんてことはないので、安心してください」とエクスキューズを入れています。そんな慎重なわたしに「壺を売るとしたらどんな話しかたするのか聞きたい」とニヤニヤしながらリクエストするのはおやめくださいね。お答えしておりません! ガオー)