他人の「禅の言葉」を借りて気持ちよくなっている人が出てくる話がある。なんでこんなリアルにありがちな対外的ヨギーマインド(練習はしないけどヨギーとして扱われたい)の脳内世界を描けるのだろうと驚いて、最後にこの本のあとがきを読んで納得。
なるほど。子どものころからそういう大人を見ていれば嗅覚も養われる。
この本は少し前に読んだ「あなたを選んでくれるもの」でがつんとやられた感じがあって読みました。世の中にガツンとやられる本はたくさんあるけれど、同じガツンでも気持ちのいい打たれかたというのがあり、どうやらわたしはちょっと意外な角度から続けざまにボコボコにされるのが好きみたい。この本はそのパターンの網羅性がすごい。♂→♂、♂→♀、♀→♂、♀→♀、すべてのラリーの球種を緻密に描く。
これは短編小説集なので短いものはテレビ・コマーシャルの一話のような話もあるのだけど、 設定で忖度してこない。ここがすごい。 人間同士の掛け合わせに「ありがち」なものがないところに妙なリアルさがある。
これはわたしの日常の例ですが、たとえば買い物のレジの後ろで並んでいる人同士の会話を耳にして、圧倒的にその片方の人に対する共感が噴き出し「わたし、あなた。あなたの意見と同じ! あなた側よ!!! わたしもね、この間こんなふうに相手に言い返そうと思ったのだけどやめておいたの。今のあなたが言葉をのみこんでいるのとまったく同じ理由。だからわかるの。それにそれにペラペラペラペラペラペラペラペラ・・・」となってよくわからない自己開示がはじまることがあります。もちろん脳内でだけ。
30代の頃はこれを口に出してやる人を見るたびに「絶対ああなりたくない」と思っていたのですが、いまはちょっとそれをやってしまう人の回路がわからなくもない。絶対こんなふうになりたくないという思いは変わらないのだけど、頭の中の展開は以前よりも想像がつく。相手はしたくない。だからわたしも誰かにとっての「関わりたくない人」にならないために、脳内おしゃべりは口に出さない。
こういう、日常の中にすっと差し込んでくる妄想から展開して強化されていく超個人的指針のあぶり出しを、この作家はものすごくじょうずにやるんですよね…。「こうなりたい」を見つけるのはむずかしいけれど、「こうはなりたくない」は見つけやすい。「こうはなりたくない」をたくさん集めると、それだけでイメージが仕上がってくるのだけど、あれ? これって10年前、20年前のわたし? となる。いまのわたしの構成要素は「こうなりたくない」「もう、あんな思いはしたくない」をていねいに避けてきた自分でもあったりして。
この本を読んで、ひとつ大切なことに気がつきました。わたしは精神の恥部をポップに表現することを上手にやっているものを見ると畏敬の念が湧くのです。精神の恥部というのはじゅくじゅくさせると悪臭を発するので、ときどき乾燥させてかさぶたにしておかなければいけない。ほぼ全部の話にセクシャルな話が出てくるのだけど、ミランダ・ジュライの本を読んでいると、かさぶたは日に当てて乾かさねば! と感じる。だからといって恥部は突然出したら通報される。どこで乾燥させればいいやら。日本の社会は清純信仰だからなぁ。
セックスレスの描写だって、こんなにポップでかわいい。
わたしたちのあいだにもう性交渉はない。べつに彼を責めてるわけじゃない、悪いのはわたしなんだから。夜、ベッドで彼の横に寝て、自分のあそこに信号を送ってみるけれど、まるでケーブルに加入していないテレビでケーブル・チャンネルを観ようとしているみたいな気分になる。頭はセックスの指令を送っているのに、わたしのあそこは次におしっこに行くときを待っているだけだ。おしっこだけが自分の仕事だと決めてかかっている。
(「モン・プレジール」より)
「ときめかない」という表現でオブラートに包むしかない女性の身体生理(女性版の ”勃たない”)を、よくこの文字数でまとめるものだと感心してしまう。
女性の友情関係の中でやんわり避けられるに至る、相手に負担をかける人のマインド・セットもうまく書く。
彼女のなかには、わたしのための場所がある気がした。拒絶しようと思えばできるタイミングがあっても、彼女はそうしなかった。彼女は自分からは何も訊いてこないかわりに、逃げもしなかった。わたしが他人にまず求めるものはそれだった。逃げないこと。足元に赤いカーペットを敷いてあげないと友情関係に踏みだせない人というのはいる。周りじゅうから、いくつもの小さな手が自分に向かって木の葉みたいに差し伸べられていても、その人たちにはそれが見えないのだ。
(「十の本当のこと」より)
赤いカーペットと言われると奇妙なおしゃれさが漂う。
ままならん人間関係における「おもしろエラー」も、うまいこと書くよ、この人は!
わたしは彼女の横に膝をついた。彼女の背中をさすったけれど、ちょっと親密すぎる気がしてすぐにやめて、でもそれだと冷たい気がしたので、かわりに肩をぽんぽんと叩いた。これなら実際に彼女に触れている時間は三分の一だけで、あとの三分の二は、手は彼女に近づいているか彼女から離れているかのどちらかだ。でもそのうちに、だんだん難しくなってきた。「ぽん」と「ぽん」のあいだの間隔を意識しすぎて、自然なリズムがわからなくなってきた。なんだかコンガを叩いているみたいだ。そう思ったとたん、ついうっかり軽いチャチャチャのリズムを刻んでしまい、とうとうテレサは泣きだした。叩くのをやめて彼女を抱きしめると、彼女もわたしを抱きしめかえした。わたしのやったことは何から何まで裏目に出て、テレサの悲しみをさらにレベルアップさせたあげく、自分までいっしょにそのレベルに行ってしまった。
(「ロマンスだった」より)
ここは鼻から牛乳出るレベル。この種のギャグと性描写のキレは初期設定値がかなり高いので電車の中で読まないように!
しかもね、ものすごい角度から泣かすのよ。えぐるのよ。こわいわー。わたしはここでうわああぁぁぁっとなりました。
人はみんな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎていて、だからちょっとした手助けが必要だ。粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいに。
(「十の本当のこと」より)
これは手帳に書いておいたほうがよさそうなレベル。寒い冬は特に。
なんか誰かに「鍋でも食べに行こーよー」なんて声をかけたくなってもできない、できっこないというマインドのときに読むと、「ユーは、わしか!」となる。ミランダ・ジュライはやさしい人。
- 作者: ミランダ・ジュライ,岸本佐知子
- 出版社/メーカー: 新潮社
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