うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

オピニオンもキャンペーンもアジテーションもない場

あるきっかけがあって、ここ数年自分が避けてきたことを振り返ってみました。

オピニオンもキャンペーンもアジテーションもない練習の場をわたしが大切に考えている背景について、自分の漠然とした思いを掘り下げてみました。
あるきっかけというのは、数年前からこのブログとは別に使ってきた「note」というコンテンツプラットフォームを提供するサービスの変化を追いながら感じたことがあったから。
「note」は昨年と今年で大幅に利用者数を伸ばし、機能はすばらしく向上し、発信者が増え、ホットな変化を遂げているサービスです。
それまで多くの個人発信プラットフォームが無料、有名人、ゴシップ、プライベートの切り売りをフックにユーザー数を拡大していったのに対し、このサービスは「上質のノウハウがいっぱい」「賢い人やクリエイティブな人が使っていそう」というムードを醸成することに成功しています。


いまは新聞社の運営するウェブメディアのニュース記事でも、よくよく読むと「これはこの記者の希望ってことか」という文章が増えていて、自分にとって有益な情報を拾い出すのがむずかしくなっています。そんななか「note」には市井の人が経験から生みだした思想や理念が宝物のように存在していて、発見が楽しいサービスでした。自分と同世代の人が思春期の子どもとの接し方に悩む母親としての気持ちを綴った文章に涙したりして。そこにはおどろくほど文章のじょうずな人がたくさんいる。
2018年の晩夏に以下を読んだときは、あの「ノれない苦しみ」を言語化できる人って、いるんだ…。と感動したものでした。

note.com

 

それが、ここ一年ほどは利用者の増加とともに、わたしにとって宝物のような文章が見つけにくくなってきました。そうなってみてはじめて、オピニオン(意見)とフィロソフィ(理念)は別のものだからこそ、フィロソフィが見つけやすいそのサービスに魅力を感じていたのだということに気がつきました。

オピニオンとキャンペーンとアジテーションが増えていくインターネットに、わたしは疲れていたのでした。わたしがヨガクラスや読書会をやるときに心がけていることも、まさにこの感じなのです。フィロソフィは言葉ではない形で、形式の中にデザインとして織り込む。

ここ数年自分が避けてきたことの正体が少し見えてきて、オピニオンもキャンペーンもアジテーションもない場所って貴重だ…とますます思うこの頃です。