うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

死ぬことが人生の終わりではないインディアンの生きかた 加藤諦三 著

死ぬことが人生の終わりではないインデ
古本屋で衝動買い。加藤諦三氏の本は過去に何冊か紹介していますが、この本はこれまでに読んだものとは少々趣が違う。女性誌に連載されていてもおかしくない構成。心理学本ではなく哲学本になるのかな。とても読みやすいです。
この著者さんに共感するところが多いのでリピートしているわけなのですが、この本ではじめて著者さんの家庭環境や生い立ち、そしてアメリカインディアンの教えに支えられたという過去を知りました。ベストセラーになった「リトル・トリー」や、「レイム・ディアー ― ヴィジョンを求める者」を過去に紹介したことがあるのですが、この本はその哲学の入門編として、すべての人におすすめしやすい一冊。
ヨガをきっかけにインド哲学に触れるようになってから、その教えのすごさに膝を打つばかりだったのですが、ネイティブ・アメリカンの哲学もまたすばらしいものです。宗教や教えは風土と深く関係するので、うちこは日本の神道の教えに対しても同じスタンスでいます。イスラームの教えについても同様。


ちょうど「自責と他責」について考えることの多いときにこの本を読んだので、ものすごく響いた。
長くなるので紹介を2回に分けようかとも思ったのですが、


 その哲学の教え→われわれの「他責」「エゴ」のしくみ


という流れを断ち切らない紹介のほうがいい気がするので、長くなりますが、メモしておきたいと思った箇所をまとめて紹介します。「状況はどうであれ、周囲の人がどうであれ、わたしは自分の意思でがんばりたい」と思っているなにかを抱えている人や、「憎しみ」の構造について考える人には、きっと助けになる内容です。
ページの順番では後になるのですが、まず先にこのくだりを紹介したい。

<176ページ 自然への畏敬の念が心にゆとりを生む より>
 心理的に病んでいる人が自分のしたことに対していかに人々に感謝を要求するかということを考えれば分かります。感謝をすることと、感謝を要求することの違いは心理的にははかりしれないほど大きいのです。

ちょうどこの本を読んだころに「潰れないこと」という散文を書きました。権利の主張は、感謝の要求なのです。


<27ページ 「大地の子」インディアンに憎しみはない より>
 憎しみの大きな問題は、生きることから喜びを奪うということです。人から安らぎを奪うということです。鬱病者が、人が楽しくしていると暗くなるというのは、憎しみがあるからです。
憎しみがあっては人と楽しみを分かちあえません。
 アメリカインディアンに憎しみがないのは、おそらく自然の中で生きているからです。それは鳥や魚まで含めてお互いが大地家族であるという宇宙観です。皆母なる大地の子供なのです。
 おそらく、アメリカインディアンが山で遭難しそうになってヘビが出てきたら、ほっとするでしょう。鳥が鳴いているのを聴いたらほっとするでしょう。花が咲いているのを見たらほっとするでしょう。そこに生命があれば「自分も生きていける」と思うのです。ヘビも生きていけるのだから自分も生きていけると。

同じヘビを題材としたインドの定番の教えに、「無明であると、ロープを蛇と見間違えて怯える。それは自らが生み出した恐怖」というのがあるのですが、この部分を読んだとき、双方おもしろいなぁと思いました。そして「人が楽しくしていると暗くなる」という心の構造があまりにも身近に珍しくないことを感じていたときだったので、心の支えにもなりました。

<30ページ 「私達」という哲学が幸せを呼ぶ より>
 アメリカインディアンの哲学は「私達」です。そしてこの「私達」ということと対立するのが、ほかの世界の「私」です。魂の世界からの離脱は、この「私」を強調します。「私達」は生命の根元なのです。
 しかし、憎しみがあると「私達」という感覚は無理になります。あくまでも「私」という感覚です。憎しみがあると、私があなたにすることはあくまでもあなたにすることです。だからそのお返しに、あなたは私に何かをしてくれなければなりません。


(中略)


アメリカインディアンの哲学は)「あなたさえ幸せならば、私はそれでいい」という恩着せがましい生きかたの世界とは異なります。これは、子供を心理的に五歳児と同じような大人にしてしまう母親の世界です。自分が幸せになる能力がない時に、人は自分が犠牲になっているような恨みがましいセリフを言うものです。

日本の心は演歌ですからね。寒さ堪えて編まれたセーターなんて、重くて肩がこります。

<35ページ 憎しみが憎しみを呼ぶ「私」という哲学 より>
アメリカインディアンの「私達」という哲学は、憎しみがなくて初めて可能になる哲学なのです。それは、「あなたがいるだけで私は幸せです」という世界です。あなたのためにこれだけ働けて、私は幸せだったと考える世界です。
 そこには負担も苦しみもありません。幸せが幸せを呼ぶ安らぎの世界です。それに対して、憎しみが憎しみを呼ぶ社会の「私」という哲学は、あなたのために私はこれだけ働いた、本当に大変だったと考える負担の世界です。「あなたがいるだけで私は幸せ」と対比していえば、「あなたがいるだけで私は不幸」という世界です。

「別れ話になったとたんに、不幸の種になってしまうわたくし」という構造の恋はもう一生しない気概でいる(笑)。演歌は御免さ。

<75ページ ありのままに死を受け入れる より>
 ある老人の手記です。「我々は生きていることだけを人生と考えるが、だが死ぬこともまた人生なのである。また死は生の潜在的悲劇と考えられるが、死ぬこともまた人生であり生死は生そのものである。やがて死ぬ愛する人も、いつかは死ぬわが身も、人生そのものの自然の姿とあきらめよう」。
 この死生観は「あいつも死ぬ、こいつも死ぬ、皆死ぬ」ということで、自分の死を納得している死生観です。アメリカインディアンの死生観とは違います。
 アメリカインディアンは、単純に生きたから死ぬ時も単純に死ぬのです。食べる時に食べ、寝る時に寝ていたアメリカインディアンの素朴な生きかたが、その死生観に表れています。
 他人との競争の中で生きていた私達は、満たされていないから、そう単純素朴には死ねません。
 アメリカインディアンは「ここにとうもろこしができた」という単純素朴な喜びの中で生きています。私達は「とうもろこしを隣の人はもっと持っている」という妬みの世界に生きています。

さも悟ったようなフレーズの中にも、憎しみが練りこまれている場合があります。読解力と分解力を高めてくれるのがヨガのいいところだとうちこは思っているのですが、ヨガを行じる人の中には、憎しみの転嫁スキルをそこで身につけてしまう人も多いのが実状。と感じることがあります。
はじめのころは、「そうだ、呼吸をしているんだ。生きているんだ。イエーイ」であったはずなのに。初心忘れるべからずです。

<89ページ 死は魂だけの状態になること より>
 アメリカインディアンが「魂の死はない」と言うことは、彼らの象形文字を見るとわかるような気がします。彼らが絵で死や生命や魂をどう表しているかを見てみると、それをどう考えていたかが分かる気がします。
 生命(=Life)は丸い円です。魂は、その中に黒く点を描きます。そしてその黒い点を円全体に広げると死となるのです。考え過ぎかもしれませんが、死は魂だけになった状態だと感じていたのではないでしょうか。
 丸の中に点を入れて、魂としているのはどういうことでしょうか。それは命の中に魂が入ると考えていたのでしょう。命は草にも水にも木にもあります。人の命に愛と意志と理性などを入れるときに、その命は魂を持った命になります。

とても面白い話ですね。

<99ページ 生活と解け合う宗教 より>
 アメリカインディアンは「私達には聖書はいらない」と言います。それは、彼らにはバイブルの代わりに風があり、雨があり、星があるからです。彼らにとって世界は開かれた聖書のようなものです。


(中略)


「私達は神の許可を得てここに住んでいる」という感覚で生きていれば、生きかたすべてが違ってきます。
 そのように生活と宗教とが解け合って生きているからこそインディアンは死を自然なものとして受け入れられるのでしょう。


(中略)


 生活と宗教とが融合しているということは創造主の慈愛で生活しているということです。

宗教を上下の区別の仲裁役にしないスタンスであること。これがアメリカインディアンの教えのすごいところ。雄弁さの必要がない宗教。これはインドとの大きな違い。どちらにも風土の背景がある。日本には四季があるので、区別が流転する。「流れるものとして」受け入れる。ここにも風土の背景を感じます。でも最近は「保証」を事前要求しすぎて「そもそも流れる季節のなかの国民」としての、風土発の底力が失われつつある。

<119ページ 自然のあり方から何を学ぶか より>
 現在の私達は自然よりも人との関係が重大な関心事になっています。アメリカインディアンの自然観を読んで、私達はもう一度いかに生きるかを自然から学ぶ態度を身につけたいものです。
 木は葉を通して、枝を通して生命の歌を唄っています。木は、人の生きかたについて何を教えてくれるのでしょうか。木は植えられたところで値をはやし、栄えます。障害があれば柔軟に適応して栄養を吸収します。
 柳の木と樫の木が並んでいます。嵐が来た時に、その緊張に柔軟に対応するから柳の木は残ります。この木は自らの限界をよく知っています。そして柳は自分自身の曲がりかたをするのです。

「自然よりも人との関係が重大な関心事」というのは、ほんとうにそうですね。うちこはITビジネスの世界に身をおいているので、ソーシャル化の波の中にそれを多く見る。ゆるさとしなやかさには、根底に圧倒的な違いがある。根腐れした土壌では「繋がらない戦略」も有効であると思う。エネルギーの奪い合いは、マイナスに働く。

<122ページ 自然のすべてのものは神聖である より>
 アメリカインディアンはすべてのものの上に奇跡を見ます。原因と結果の思考はアメリカインディアンの思考ではありません。私達は誰でも生まれることと死ぬことの奇跡に向き合います。これが生命の起源であり、原則です。
 この神秘に接したすべての人はアメリカインディアンと同じ態度をとります。つまり、すべての創造物の中に神聖なものを感じるのです。その中にる神を畏敬の念を持って見ます。
 アメリカインディアンはすべてのものの中に神聖な力を感じとります。雷も、嵐も、その中に神の声を聞きます。川の急流の中にも神の姿を見ます。終わることなき太平洋のうねりの中にも神の姿を見ます。花が咲き、そして散っていくのも、花の中に潜んでいる神のなせる業であると感じます。自然は神の現れであると思っています。


(中略)


 そして、アメリカインディアンが雨に濡れた時に私達と違った感覚を持つとすれば、それは雨の恵みを感じているからでしょう。雨を雨だけと考えれば、気持ちが悪いでしょう。しかし雨が降ることで大地に収穫があります。それが、自分が濡れる以上に嬉しいことなら、雨に濡れても気持ち悪くはなりません。

この本を読んでいく流れの中で、ここに登場する「原因と結果の思考はアメリカインディアンの思考ではありません」というのが、ヨギのうちこにはものすごく刺さった。でも、「自然は神の現れ」という帰属点は一緒なのです。自然にエネルギーを削ぎ落とされるような環境であるかないか、という風土背景をここにも感じる。

<129ページ 肯定的なものに意識を集中する より>
(アル中で放蕩生活を送った後、足を失い施設で暮らすことになった著者の叔父が「私には手がある」と言ったという話が以前にあった後で)
 鬱病病前性格といわれる執着性格者というのは、この叔父とは別の種類の人達です。執着性格者はこの叔父のような愛のない環境で成長しながらも、真面目に生きた人達です。だから心の底に憎しみを持ち続け、失ったものに執着し、中には最後に鬱病になる人もいるのです。
 日本人に多い執着性格者とは、決して心から満足したことのない人々です。愛のない家庭に育ちながらも、決して社会の規範をやぶらなかった人達です。

真面目って、なんだ? と考えさせられたくだり。「真面目人間性悪説」とでもいおうか。

<131ページ ものの見かたは感情で決まる より>
鬱病の人に対して)周囲の人は「どうしてそんな暗い面、暗い面ばかりを見るのだ」と思うでしょう。「あなたにはこんなにいろいろなものがあるじゃないか」と思うでしょう。そして「視点を変えろ」と説得するのです。
 説得する側は「考えてごらん、私なんか何もないわよ」と言います。確かにその通りであることが多いのです。幸せな人の方が何もなくて、不幸な鬱病者の方がいろいろと恵まれているものです。
 しかし、それでもダメなのです。それは鬱病者の方が心の底に憎しみがあり、その憎しみの感情が鬱病者の物の見かたを決めているからです。その憎しみの感情をとらない限り、鬱病者の視点は変わりません。
 そしてその感情を変えるのが、自然の癒しなのです。心の憎しみの感情をとらない限り、鬱病者の視点は変わりません。

この著者さんと少し似た境遇を持っているのですが、うちこにはアルコール依存症の父親の心の底にある「憎しみ」を取り除くことはできないのだけど、「憎しみ」の認識を一緒にしたことで、父の心が変化しました。(参考記事)この実体験から学んだことはとても大きくて、自然の癒しだけではなく、方法はあるのではないかと思っています。父が私に対して憎しみではなく愛情を持ってくれていたというのも大きな一要素だと思います。愛情を注がれる立場の人間だからできること、というのがあるように思うのです。


この著者さんは心理学者ではなく社会学者さんなのですが、このあとに紹介する内容では、「エゴの構造」に切り込んでいく流れになります。「憎しみの表現の必要性」について語られているものに触れたのははじめてです。

<140ページ 憎しみを表現できない人は不幸から逃れられない より>
(この章全文)
 憎しみの表現を力で禁じれば、今度はその子が無気力になります。ノイローゼになる子もいるでしょう。憎しみの表現を力で禁じることは、その子に「お前はやられっぱなしでいろ」ということです。無気力にならないほうがおかしいのではないでしょうか。
 憎しみの表現を禁じられた者は自己無価値感に襲われます。前向きな努力をしなくなります。そうなっても憎しみはかたちを変えて表れてきます。
 たとえば、恩着せがましさです。相手に恩を着せて自分の価値を感じようとします。恩着せがましいとは、相手に「私は無価値だ」と感じさせることです。結局は周囲を苦しめることになるのです。
 あらゆる憎しみの表現を禁じられた者は、一生「辛い、辛い」と訴えて死んでいきます。「辛い、辛い」と訴えても、訴えても辛さは消えません。だから、死ぬまで「辛いー、辛いー」と訴え続けるのです。
 これも同じように結局は周囲を苦しめます。「辛いー、辛いー」と訴えることの隠されたメッセージは、「私をどうにかして、私がこんなに苦しいのはあなたの責任です」ということです。周囲の人に「罪の意識を持て」という要求です。
 憎しみの直接的な表現を禁じられた者の中には、先に書いたように復讐心や劣等感から「見返してやろう」と頑張る人もいます。そして成功する人もいます。カレン・ホルナイの言う復讐的勝利です。しかし、こういう人は周囲に憎しみを買ってしまうので、本人も最後は不幸になります。
 それをよく表しているのがギリシャ・ローマ時代の雄弁家デモステネスです。彼は最後には自殺しています。私は復讐心から頑張って不幸になる人々をデモステネス症候群と呼んでいます。

「憎しみの表現」について、うちこは小学生か中学生のときにものすごく刺激を受けたことがある。清少納言の「にくきもの」です。「うつくしきもの」とセットで教わる古文です。この刺激の記憶はすごく大きかった。「ユーモアの力」を思い知らされた。そこに必要なのは「ユーモア」ではないかと思うのです。
「愚痴の共感のようでありながらも、波状攻撃的に押し寄せるリズムが、全体を通してユーモアを生み出している。すげえ!」と思ったものです。そして「うつくしきもの」も書いておくリスクヘッジの周到さ。清少納言は心底すごい。

<150ページ 責任を自分で引き受ける強さ より>
(この章全文)
 なぜ、生きることはこれほどまでに辛いのでしょうか。自分はそれほどまでに前世で悪いことをしたのでしょうか? そう思いました。でも、アメリカインディアンは、「あなたを強くするように木に頼め」と言うのです。
 うまくいかないことの責任を他人の責任にすれば心理的には楽です。でも、それは弱いといいます。
「あなたを強くするということを木に頼め」とは、「うまくいかないことの責任をとれるような人間になれ」ということです。そういうように木に頼めということです。何かうまくいかない時に「それはあいつが悪いから」と言わないで、自分が至らなかったと認められるような人間になれというこということです。そういう人間になれるように木に頼めということです。
 何かうまくいかない時に、責任を他に転嫁しないで生きていられるような人間にしてくれと木に頼めということです。この人生にはうまくいかないことが余りにも多いものです。誰でも「それはあいつが悪いから」と言いたいでしょう。しかし、うまくいかないことの原因は自分の中にあったと認めて、それでもパニックにならないで生きていけるような人間になれということです。
 家庭も会社も恋愛も事業も、どこもかしこもうまくいきません。そんな時に「あいつが悪い」と言わない。何かうまくいかない時に、その原因を自分の生い立ちに求めて、親を恨まない。自分の持って生まれた気質に原因を求めて、神を恨まない。強くなるとはそういうことです。
 それは失敗をした時に、生まれた環境とか、持って生まれた気質とか、そういう自分ではどうすることもできない、つまり自分に責任がないところに原因を持っていかないということです。
「オレはあんな環境に生まれたのだからしようがない」と言わないということです。「もともとオレはそういう気質だからしようがない」と言わないということです。それらうまくいかないことの原因をすべて自分が引き受けて、それでも立っていられるのが強さです。

もしうちこに人生の転機があったとしたらならば、それはやはり「親を許したこと」だと思います。同世代で「婚活」生活をする人々に対して、うちこは何も感じないのです。自分自身のこの背景をまるごと含めてできる人間関係が、うちこにとってはすてきなことだから。
これは、父と同居を決断するとき(3年前)に、おぼろげに描いていたイメージどおりです。きっと、すごくいやなことがあるだろう。制限も増える。でも、それを棚上げして刹那的になにかを楽しむようなことは、きっと、もっと楽しくない、と。
いまはもうそれすらもなくなって、刹那的にいろいろ楽しめる。根底にあった性格の明るさのようなものが、ここ数年でやっと芽吹いてきたような、そんな気がします。(身近な友達には「あんたむかしから相当アホだったよ」と言われそうですが)

<153ページ 他人に依存せず一人立ちする強さ より>
(この章全文)
 ところで、強くなるという意味は、責任を負える人間になるということのほかにもう一つあります。自分一人で立っていられる人間になるという意味です。それは「分かってくれ」「愛してくれ」というような要求を持たなくなるということです。
 他人に自分の苦労をわかってもらおうと努力するのは構いませんが、わかってもらえないと心理的に自分が持たないというのでは、人に憎しみをもってしまいます。
 自分の苦労を理解してもらわないと気持ちが持たないというのは心理的に他人に依存しているということです。他人に苦労をわかってもらおうとしてもなかなかわかってもらえません。そこで憎しみを持ちます。
 相手から気に入られようとして努力します。怖いから何でもイエスと言います。ご機嫌をとります。その結果いつも怒られ、恩を着せられ、責められているような気がしていきます。
 しかし、それでも気に入ってもらえません。そんな時に相手に憎しみを持ちます。相手に気に入られなければ生きていけない弱さこそ憎しみの原因なのです。相手に気に入られなければ生きていけないほど弱いからこそ、自分を気に入ってくれない人に敵意を持ってしまうのです。
 だから、自分の中の憎しみと敵意を認めたら、次には自分の弱さやずるさを認めることです。
 また、こういう弱い人達は好意のなんたるかを知りません。だから、そういう弱い人は多くの場合誰からも理解されていません。こういう弱い人達は周りの人の道具でしかありません。弱い人の周りには、どうしてもずるい人が集まりがちです。
 普通の人間関係であれば年月の積み重ねがあれば優しさは出てくるものです。しかし、この弱い人達の周りにいる人達は冷たいから、年月を経てもその人達に優しさを表現しません。弱い人達はいつまでも、周囲の人にとって利用する対象でしかありません。

ここへきて、「丹田」なわけです。べつにヨガブログだからってそこに着地させようとしているわけではなく(笑)。
よく「軸」とか「コア」とかブレるとかブレないとか言いますが、大切なのはその種火を燃やし続ける前提でいるかいないかです。「消えたら誰か、助けてくれるかな」「いや、消えたことに気づいてもらえなかったら……」なんて思考がいっさい沸いてこない「覚悟」のようなものです。
「覚悟」という単語は、よくよく見ると本当に深い単語です。「覚悟する」という動詞使いがそもそもおかしいんですね。動詞じゃないから。「動詞し続けることの形容詞」なんですね。


「いまの日本人にためになるかならないか」という視点で読むのはもったいないような本だと感じました。
そういう読書は、読書することをつまらなくしてしまう。できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思う本です。
こんなにやさしく書かれているのです。感じましょう。