うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

世界が完全に思考停止する前に 森達也 著


10年前のコラムがまとめられた本。「いのちの食べかた」「世界を信じるためのメソッド」よりも前に出た本。「憎悪を共有することで暴走する人間の恐ろしさ」がとことん説かれています。
読み始めてまもなく、こんなフレーズを目にしました。

誰だって知っているはずだ。世界があるから自分がいるのではなく、自分がいるから世界があるのだということを。


わたしがオウム真理教の事件と9.11に抱く感覚は、まさにこの著者さんが語ってくれている通り。オウム真理教の事件に対するスタンスは吉本隆明さんのそれと似ています。
わたしは9.11のとき、そこまでするに至る民族感情について考え、アメリカに原爆を落とされた国の人間がまずそこに関心を持つ気持ちになってもおかしくないだろうと思っていたのですが、なぜか口にできない雰囲気でした。このとき、ああ本当に日本はアメリカの子会社なんだなと思うようになりました。
その頃はイスラームについてはよく知らなかったけど、ぼんやりと「その教義が優れているからこそ脅威なのだろう」と思っていました。時期が来てイスラームについて学ぶようになり、ムスリムの知人が増えてからは、世界の見え方がガラリと変わりました。




インドでヴェーダーンタ哲学の授業を受けていた頃、先生がポロッとこんなことをつぶやいた。


「ここは聖地だからね。ムスリムも居ない」


この先生の授業自体はすばらしいものでしたが、主語を省いたこの物言いには少し巧妙さを感じました。「世界があるから自分がいるのではなく、自分がいるから世界があるのだ」という森先生の方がよっぽどヴェーダーンタを貫いてる。ムードに染められる感情は日本だけの現象ではありません。




オウム真理教については、ヨーガの練習を重ねれば重ねるほど考え方が変わってきました。
教祖の精神が崩壊してしまったのでもう真実は闇の中だけど、わたしはオウム真理教に入信した個人と組織の「覇権欲と承認欲」の現われかたの形がああなったのだと思っています。こういう話はオンラインでテキスト公開する気はないので書きませんが、この本にある内容と同じように考えています。
著者さんは言います

主語のない述語は暴走する。

わたしは争わないための教義として「コーラン」に感動し、争うことを認めないことすらも認めない教義として「バガヴァッド・ギーター」に感動しました。
日本は聖典を読む方向には行かないと思うので、せめて水戸黄門もしくはその効果を持つものを復活させないと、「けしからん」「お灸をすえてやる」「ざまあみろ」の感情のやりどころが生々しい方向に暴走する。「倍返し」というドラマが流行っていいのか悪いのか……。
わたしは10代の子がインターネット上でうっかりやってしまったことをテレビの報道で何度も流したりするのは、異常だと思っています。以前はなかった制裁です。あそこまでされてたら大人でも精神が崩壊するでしょう。
この本を読みながら、以前よしもとばななさんの「体は全部知っている」にあった、この表現が頭に浮かびました。

きっとこうやって大勢の人がなんかや誰かを「憎んでおこう」と決めて、自分の中に眠る憎しみのパワーを全部とりあえずそこに注ぎ込んでそのもののせいにすることに中毒しているみたいな変な状態になって、戦争っておこるのかもしれない……のんきな思春期の私はそんなことを考えていたが、やはり、心は傷ついていた。
(「明るい夕方」より)


森達也さんのような大人が身近にたくさんいるのが、よい社会だと思う。
残念な大人たちに合わせる必要はないから、まずはこういう本を読んだらいいよ。と若い世代の人におすすめしたい。「うちの親はなんかヘンだと思う。クレーマーっぽい」と思うのであれば、必ず読んだほうがいいと思います。
(とはいえオウムの件などは20代にはピンとこないのであろうが……)



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