どのシステムにどのくらい関与しながら自分の人生を生きるか。
どの組織にどのくらいコミットして、本来ありたい自分を見失わない範囲で人格をコントロールするか。
自我を滅してしまえば奴隷という認識や概念に振り回されずに精神の自由を得られるのに、なぜそうしないのか。カルマ・ヨーガってなにっ?!?!
な〜んてことを日々呼吸するように考えている人にとって、この本は深刻にならずに頭に涼しい風を送ってくれます。
50の思想・コンセプトがぎゅっと日本のビジネスパーソン向けに編集されています。
わたしが哲学の本を読むようになったのは30代からで、ヨーガの哲学はインド人の先生から教わってきました。その先生が授業で西洋の心理学や社会学をよく引用されたこともあり、この本に出てくる人物の何名かは少しですが知っていました。
なかでもエイブラハム・マズローが『自己実現を成し遂げた人に共通する15の特徴』のなかにあげている「共同社会感情」は、ヨーガ・スートラやヨーガ・ヴァーシシュタで手を変え品を変え何度もインプットされるものと似ており、サルトルの唱えたコンセプトもわたしの受けた授業の内容に近いと感じました。
私たちは外側の現実と自分を二つの個別のものとして考える癖がありますが、サルトルはそのような考え方を否定します。外側の現実は私たちの働きかけ(あるいは働きかけの欠如)によって、「そのような現実」になっているわけですから、外側の現実というのは「私の一部」であり、私は「外側の現実の一部」で両者は切って離すことができないということです。だからこそ、その現実を「自分ごと」として主体的に良いものにしようとする態度=アンガージュマンが重要になるわけです。
(08 アンガージュマン より)
だからこそ〜、以前の基本的な考え方は、そこに「マーヤー」という概念を絡めて語れば、アドヴァイタ・ヴェーダーンタを解く説法を聞いているのと似た感覚になります。
わたしの先生は「How ではじまる問いの中にいましょう」という話し方で、この本の中で解説されているサルトルのコンセプトと似たことを話されていました。
フェスティンガーの思想を紹介する章では、インドの因中有果論・因中無果論を初めて知った時のことを思い出しました。
私たちは「意思が行動を決める」と感じますが、実際の因果関係は逆だということを認知的不協和理論は示唆します。外部環境の影響によって行動が引き起こされ、その後に、発現した行動に合致するように意思は、いわば遡求して形成されます。つまり、人間は「合理的な生き物」なのではなく、後から「合理化する生き物」なのだ、というのがフェスティンガーの答えです。
(11 認知的不協和 より)
因果論の危うさを解くという点で、この本はさまざまな角度で自分の歪みを意識させられます。
以下は、少し前に読んだ本でセゾングループの辻井喬氏(=堤清二氏)が書いてたやつ! とタイムリーにビンゴして記憶に残りました。
端的にホフステードは「権力格差の小さいアメリカで開発された目標管理制度のような仕組みは、部下と上司が対等な立場で交渉の場を持てることを前提にして開発された技法であり、そのような場を上司も部下も居心地の悪いものと感じてしまう権力格差の大きな文化圏ではほとんど機能しないだろう」と指摘しています。
(23 権力格差 より)
少し前に、ピーター・ドラッカーの唱える内容に対して当時抱いた感覚を吐露されている以下の本を読みました。
ここ2年のパンデミックで世界各国の意思伝達のされやすさや特性が可視化され、わたしは「日和りながらのトップダウン」と「スピードを優先したトップダウン」を役者を変えて織り交ぜながら煙に巻いていく日本的なやり方を追いかけることに疲れ、頭がすっかりやられていました。
「これは自分の判断の軸足感覚に近い。このような理由で」という哲学に出会えると、武器とまではいかなくても、メンタルを助けてくれることがあります。
具体的には、コンプレックスや自尊心を刺激してくるやり方を見破るとか、反応する自分の衝動を一般的なものとして(特別なものじゃない前提で)見られるとか、そういうこと。
これからさらに年齢を重ねていくにあたり、ますます進化を続けていくであろうオレオレ詐欺に引っかからないための武器としても、わたしは哲学を勉強し続けねば。
読み終えてから、そんなことを思いました。