先日、地方でヨガクラスをした後に「ヨーガの哲学も学んでみたいと思っているのですが、おすすめの講座はありませんか?」と聞かれ、むずかしい種類の質問だなと思いました。「むずかしい」にもいろいろな方向があるので、今日はそのことについて書きます。
インド思想や哲学の講座はさまざまなものがあると思いますが、たとえば講師がインドのスワミであるとか、日本人でもインドのアシュラムで修業をしてきた人だとか、サンスクリット語の原典から紐解けるとか、なんらかの公認とか、それはもちろん「本来の」という意味を裏付ける要素で、それだけでも迷ってしまいますね。わかります。
わたしの場合は日本とインドでティーチャートレーニングを受けたことがあるのですが、そこで学んで得た知識とはまた別に "学ぶ人が日本人であるということ" という点を踏まえて、思うことがいくつかあります。それは自分の経験から考え続けていることです。
いくつか項目立てて書きます。
【1】教義と神話が並行してあるなかで哲学を学ぶという姿勢がない国で生きてきた
わたしがインド思想・インド哲学を教わった環境は様々な国の人が15人くらいいて、英語でのディスカッションの多い授業でした。約三ヶ月、ほぼ毎日2時間〜3時間ありました。
そこで強く思ったのは、聖典(聖書ですね)に日常的になじんで生きてきた人、特にイタリア人・スペイン人は教義と神話学(聖書の解釈)が並行してあるなかで哲学を学ぶということに慣れていると感じました。これは、対アジア人という視点です。 哲学は対話である・ことばである、ということを理解する準備運動ができている感じと言ったらわかるかな…。
わたしの場合はインドにいる期間にルームメイトが何度か入れ替わり、イタリア人・イギリス人・ドバイ住まいのフィンランド人という3名の女性たちと、毎晩のように夜な夜なふたりで話す機会がありました。「今日のクラスでのディスカッションにあった、あれなんだけどね…」という話からお互いの素地がわかっていく感じで、想像の範囲が拡がりました。そして、日本人同士で哲学の話をするときには、準備運動ができていないという点をすごく感じるようになりました。
ファンデーションが違うのに同じメイクをポイントだけ取り入れても仕上がらないな…、みたいな疑問がわいたといったら、わかりますかね…。
神話学の部分については、わたしがなんとなく口にしたことから長いディスカッションになったことがあって、それはかねてより先生も外国人に対してそうであろうと思っていたことだったようです。それは「まろやかインド哲学」のほうに書いたことがあるので、興味のある人は読んでみてください。
【2】日常にすでに漢訳仏教の言葉が入っている
日本語というのはおもしろいことに、もう日常に漢訳仏教の要素が入っています。「解脱」なんて言葉はわりと普通に使いますよね。漢字で訳した文字列が、道徳感覚でスッと入ってきやすい。対話の技術にはなじんでいないのに、概念だけは漢字を通してなじみやすいのです。これがときには助けになり、逆に掘り下げることをやめるきっかけにもなってしまいます。
インドにはいろいろな種類の哲学があるのですが、日本人の場合はどうしても慣れで仏教ベースに自然に寄っていくところがあると思っています。ヨーガを主軸に置いてインドのほかの哲学(学派)のなかでのポジションも理解しながら学んでいくときには、仏教はちょっと別の扱いになることもあります。ヨーガはインド教・バラモン教の土台が厚いのです。修行・修練があるということ自体は仏教も一緒です。
そのうえで各学派によって「アートマン」の定義や示しかたが微妙違うというような、そういう粒度での脳内マッピングみたいなものが進んでいく、ヨーガだけを学ぶ予定だったのにそういう範囲ではすまなくなっていくような、そういうところがあります。でもそこまで追いかけ続けられる人って、一般的な生活のなかでは、そんなにいないんじゃないかと思うのです。わたしも学び続けていないと、ディテールまで伝え分けられません。
ヒンドゥー教に沿ったヴェーダーンタで学びますということであれば、それはそれで一貫性があると思うのですが、これはわたしの実感としてヒンドゥー教徒として生まれ育っていない分、油断すると途中で沸いてきちゃうんです。三蔵法師や空海さんの、あの感じが。(子どもの頃に、西遊記を見すぎちゃいまして…。マチャアキのも、ドリフのも)
【3】日本語は、心の動詞のようなものがあまり開発されていない
これは何年か前に書きましたので、今回は割愛します。これもいつも思っていることです。
【4】哲学は人生訓ではないのだけど、求められているのは人生訓・生活訓的なもの
哲学は強引に要約すると、生きるだ死ぬだの話です。そしてインド思想はこれまた強引に要約すると、安らぎは求めますが怠惰を肯定はしていません。 はじまりは「生きることは苦しいこと」でありながら、でも生を生み出す法則には感謝をするのです。生まれてきたから。
この理論がわたしはすごくしっくりきているのですが、日本人に好意的に受け取られやすい伝達方法をとろうとすると、伝えるのがわりとむずかしかったりします。
わからないもの・まだ全身で理解していないものに向き合うときに人が発動させる認知のプロセスとして、 すでに見聞きしているものに頼ろうとするということがあります。ほとんどの人がすることですが、そのときに自己啓発書にあるようなフレーズであったり、もっとわかりやすく例に使ってしまうと相田みつをさん的なフレーズであったり、松浦弥太郎さんのようなていねい的ひらがな表現世界であったり、もう、そういうのが欲しくなっちゃう土台がちょっとはありますでしょ。
そのあたりの認知の寄り道まで予測したうえで、インドの聖仙といわれた人たちが問答の末に打ち立てていった理論を共有していくのは、たいへんなことなのです。(←「大変」をひらがなで打つところまで、計算して書いてみました)
【5】わたしは軸足をサーンキヤに置いているのだけど、たぶん少数派
ここでわたしが軸足といっているのは「アートマンとは」「プルシャとは」ということを理解していくときに、どこかに北極星のようなゼロ点を置かないと頭が混乱するので置いておく支点のことです。
インド思想を学ぶ時、日本の大学の学部の数などを見ると、基本的に仏教に軸足を置く人が圧倒的に多くなるかと思います。仏教だけでも説は多数あります。インド的なものへの傾倒から哲学へという流れになると、ヴェーダーンタに軸足を置く人が多くなるようですが、わたしは サーンキヤに軸足を置いています。
わたしがインドで哲学の授業を受けたときの受講スタイルが、サーンキヤ・ヨーガ思想のときは白い服を着たサーンキヤ・ヨーガの先生、ヴェーダーンタ思想のときはオレンジ色の服を着たヴェーダーンの先生がディスカッションの時間をファシリテートするもので、そのときに前者のほうがアウェイ感がなく、入りやすく感じました。
心のはたらきを道徳の授業のようにではなく、まるで理科の授業のように受ける感じといったら、伝わるでしょうか。たぶんわたしのふだんの説明も、すこしそういうところがあるのではないかと思います。
少しつっこんで書くと、ヴェーダーンタになるとシャンカラの思想とラーマヌージャの思想があって、帰ってから学び続けるのに難易度が高く感じたというのもあります。
・・・とまあ、いろいろありつつ。
いったん話をずらしてあとで戻しますが、マーケティングの分野で使われる用語に「認知的不協和」というのがあります。
レオン・フェスティンガーという社会学者の人が「人は不快な緊張を感じると、無意識のうちにつじつま合わせをしようとする」という心のはたらきを実験を通して提示したものなのですが、わたしは【1】の経験があって以来、ここにすごく敏感になりました。
教義と神話学が並行してあるなかで学ぼうとするときは、必ず「注釈者のスタンス」まで理解することがセットになります。が、そもそもわたしたちが受けてきた義務教育のなかでは、その前提がないというか、まあマニュアル式なんですよね。
なので「この人! と決めた人に習っているのだけど、その人の解釈の根底にあるものの歴史や経緯を知らない」なんてことがざらにあります。そしてそんなざっくりとした文化のなかで、「いくつになっても学んでいる前向きなわたし」の時間を買いに行く、どうしてもそういうところに落ち着いてしまうことが多いというのが現状ではないかと思います。
── というようなことを、わたしはここ5年くらいずっと分解し続けています。
冒頭の質問は「うちこさんから習いたいのですが」と言っていただきつつの質問でした。
このように言っていただけることはありがたいのですが、長く書くならば上記のようなことをここ数年ずっと考えているわたしには、やはりむずかしい質問と感じます。ほかの先生をおすすめするのも、むずかしいのです。日本の義務教育にどっかり欠落しているものを、そして、すでに空気を読む道徳に染められた学びの構えをどうしたものか…と、そんなぶ厚い壁にぶちあたってしまうのです。わたし自身がみなさんと同じようにもともとはそうだったので、気持ちはわかるが、それぞれの背景が、背景がなぁ…。と。
ここ4年ほど、わたしが「読書会」という形式のオブラートにくるんで実施している時間は、今日書いたさまざまなことを踏まえて毎回チューニングし構成している、「現在ここに居合わせた日本人同士でもインド思想に近づいていけるか!」と考える場であり、そのときどきのかたちです。対話を成立させるファンデーションづくりに時間を割き、毎回そのとき用の一回限りのテキストを作っています。
なので「この人! と決めた人について行きたい」というざっくりしたモチベーションに加えて、「なんで、そこに身を置いて触れる前からむずかしそうと決めつけるのだろう」というような自己に立ち返る思いがあるほうが、ファンデーションの塗りかたとして、よい感じです。ていねいですよ(笑)。
わかりやすいとかおもしろいとか、昭和の喩えが絶妙なあなたから習いたいとか、そんなふうに言ってもらえること自体はひとつの評価なのでしょうけれども、でも、それはそれ。場の作りかたは、いつも自分なりに考えています。
わたしはみなさんと一緒に学びたいというよりは、みなさんと一緒に生きていることをありありと感じたい、そして、もしうまいこといくのであれば、成就するのであれば…
できれば、もう人間に生まれたくないな〜。いま敗者復活戦だって、わかってるの! と、そんな思いをヒト科の日本語種として共有したい。みなさんと同時代を生きながら、そんなことを考えているのでありますよ☆
(また後日、そんなわたしたちにこういう流れでこういう本がおすすめ、というのを書きたいと思っています。気になる人は、少し気長に待っててください)⇒書きました!