うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「哲学実技」のすすめ ― そして誰もいなくなった… 中島義道 著


これはすばらしい哲学スクワット本だけど、毒にも薬にもなりすぎるかも。対話授業形式で展開していく内容なので、構成上とても読みやすくなっています。これを読むと、哲学は救済ではないことがよくわかる。とにかく鮮やか。
先生一人に生徒6人。先生の話に耐え切れなくなって生徒がキーッとなって立ち去ってく場面で設定されるセリフがいい。これほど激しくないものの、わたしも似たような構造の対話にインドで何度か出くわしたことがあります。この本は日本人同士の会話なので、ナマナマしい。「思考の体力」をキーにしたスクワットが延々続きます。

一部を引用して紹介するのがすごく難しい展開なので、わたしが「これってヨガの世界でも、とってもありがち」と思う「生徒から先生への問い」を紹介します。

(生徒の発言:5「きれいごと」を語らない より)
 三浦綾子さんや五木寛之さんの本を読むと、元気が出てくるんですが、先生のお話うかがっていますと、一時は納得しておきながらもやっぱり心の中では「そうじゃない!」と叫んでいます。私、お話を聞くにつれて自分の中に大切にしているものがガラガラ崩れていくようで恐ろしいんです。誰も信じられなくなりそうですし、誰も真剣に愛せなくなりそう。哲学って、そんな冷え冷えとした境地に達するためにあるんですか?

こういう生徒側の問いや叫びの設定がとにかく秀逸。


ヨガの学びの場面でも、どういうわけか「24時間テレビを見終えたときのような感覚」を求める人がいる。それは哲学ではなく救済なので、だったら救済を売りにしているスピリチュアル・ワークに行けばいいのにと思うのだけど、世に出回っているヨガのイメージのインプットが玉虫色で混ざってしまう。こういうモニャモニャするしかないミスマッチはあちこちにある。



(先生の発言:6 他人を傷つけても語る より)
きみの中に「哲学する」という目標があるかぎり、けっして弱者の論理を振り回してはならない。それでは逃げ腰の論理であり言い訳の論理であり、どこから出発しても「自分は弱いから」という穴に落ち込む論理だ。
 こういう論理を手中にして生きていると、思考の体力は徐々に減退する。人々の同情を集めることに成功すれば、思考の体力は限りなくゼロにまで減退する。精神は麻痺してしまう。自分は「弱いから正しいのだ」そして彼は「強いから誤っているのだ」という奴隷の論理に陥る。思考は死んでしまう。

バッサリ。でも、そうなんですよね。


まえに瀬戸内寂聴さんの講演会に行ったとき、弱者の論理を振り回す人を扱い慣れたプロの技を見たことがあります。沖正弘先生も昔の映像を見ると、生徒に「いま貴様が言ったことは〜」と話し始めていて、「きさま、いうとる……」という感じなのですが(笑)、とにかく現代はこういう対話をしにくい学びの環境になっています。


という現代の学びの環境の問題も含めて、哲学の授業を疑似体験できるという意味で、すごくよい読み物。
が、「こんなのぜんぜんシャンティじゃない。ヨガじゃない」という人には刺戟が強いのでやめておきましょう。でも激しくおすすめよ(結局すすめるんかい!)。


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