うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

生きる秘訣(第二部 / 悟りの道)ヴィヴェーカーナンダ 著 / 斎藤しょう 訳

昨日ご紹介した前半「第一部 カルマ・ヨーガ(働きの道)」に続いて、今日は「第二部 ジュナーナ・ヨーガ(悟りの道)」です。現在はギャーナ・ヨーガという名称で書籍化されています。
ジュナーナ(ギャーナ)は「知識」と訳され、日本語でいうと「梵我一如」というのがなじみのある言葉かと思いますが、よく出てくる「アートマン」さんと「ブラフマン」さんの同一性を理解する道、という感じです。うちこも「アートマン」さんは引越し屋さんだっけ? というところからヨギをやってますから、みなさんも特に大げさにかまえることはありません。
うちこはこれまで何度もこの言葉に触れてきましたが、このヴィヴェーカーナンダさんという人は、まったくもって解説がうまい。座布団が山積みでもう座っていられないであろうくらい、うまい。


宝石のような表現がごろんごろん、出てきます。そして今回の引用に共通するキーワードは「実践」です。思わず膝を打つ説明が満載です。なんだろう、この「うまいっ!」という感覚は。楽太郎さんとも志の輔さんとも歌丸ヨギとも違う、この感じ。不思議だなぁ。
ではでは、いきます。いきなりハタ・ヨーガからきますよ。

<161ページ 精神修練の実践に関するヒント より>
 ヨーギ(ヨーガの行者)たちに従えば、三つの主要な神経の流れがある。一つをイダー(Ida)と呼び、他をピンガラー (Pingala)と呼び、中間のをスシュムナー (Sushumna)と呼んでいる。そして三つとも脊髄の内部にある。イダーとピンガラーは左と右にあって神経の束であるが、真中のスシュムナーは空洞であって、神経の束ではない。この空洞は閉鎖していて、通常の人間には無用のものである。通常の人間はイダーとピンガラーだけを通じて働くからである。流れは、二つの神経の束を通じて昇ったり降りたりして、全身に命令を伝達し、他の神経を通じて身体の各種の機関につたわってゆく。
 呼吸法の大きい目的はこれを調節してイダーとピンガラーのリズムに入りこむことである。しかし、それだけでは何でもない ── それは空気を肺に入れるだけに過ぎない。血液を浄化するというだけのことで、それ以上の作用はない。われわれの呼吸によって吸いこんで血液を浄化するように同化する空気のなかには何も秘教的なものはない。行動といっても単に運動にとどまる。この運動は、われわれがプラーナと呼ぶ運動単位に帰着させることができる。そしてどこでも、一切の運動がこのプラーナの種々異なった顕在となる。このプラーナは電気であり磁気である。それが頭脳によって思想として投げ出される。あらゆるものがプラーナである。それは太陽を、月を、星を動かしつつある。
 こういうのだ。この宇宙内にあるものは何でもプラーナの振動によって投射される。振動の最高の結果は思想である。それ以上に高いものがあるとしても、われわれはそれを概念することができない。イダーとピンガラーという神経はプラーナを通して作用する。身体の各部分を動かして異なった動力になっているのはプラーナである。神は神経を生ぜしめる或る物であって、王座の上に坐して正義を執行するという古い概念を棄てよ。働くことによって、われわれは疲労する。それだけプラーナを消費するからである。
(中略)
生は一つの振動に過ぎない。このエーテルの大海を振動さすものは、あなたがたをも振動させる。ちょど湖水において種々固さの度合を異にする種々の氷の層が形づくられるように、また蒸気の大海のなかで種々密度があるように、この宇宙も物質の大海である。これはわれわれが太陽や月や星や、われわれ自身を ── 固さの色々異なった状態で ── 見出すところのエーテルの海である。しかし連続性は中断されることはない。到るところ同一である。

前半は、うちこの場合はヨギですのでスキップ。メモすべきは「振動の最高の結果は思想である。それ以上に高いものがあるとしても、われわれはそれを概念することができない。」というところ。「振動の最高の結果」として、なんと薄っぺらいものを求めている人が多いことか。
(ちなみにうちこはどちらかというと、ピンガラーの通りがよくないです。特に朝。意外と女性的なのかもぉ。でもそんなに冷え性ではありません)

<165ページ 精神修練の実践に関するヒント より>
 それゆえ、全宇宙は、あなたがどんな立場から眺めようとも一つの単位である。今のところ、われわれにとって、この宇宙はプラーナとアカーシャ、すなわち力と物質の単位である。そして、他のすべての基礎原理と同様に、これも自己矛盾である。なぜなら、力とは何か ── 物質を動かすものだ。物質とは何か ── 力によって動かされるものだ。堂々めぐりだ! われわれは科学や知識を誇っているけれども、われわれの推理の根本となるもののうち若干の項目は頗る奇妙なものだ。
サンスクリットの諺にいうように「頭のない頭痛」ではないか。こういう物事の状態はマーヤー(Maya)と呼ばれてきた。そこには存在もなければ、非存在もない。

頭のない頭痛! なんて素敵な謎かけマーヤ。

<168ページ 精神修練の実践に関するヒント より>
私は街頭をウロつく夜の女を冷笑しなければならない。なぜなら社会がそうしろと要求するからだ! 彼女は私の救い主、彼女が街頭をウロつくのは他の婦人の純潔の原因である。それを思え。男も女も、あなたの心の中で、この問題を思え。それは一つの真理だ ── 露骨な、率直な真理だ!

本当に、どこまでも降りてきてくださるの。いやもうホント、すみませんです。という気持ちで読んでしまいます。

<171ページ 精神修練の実践に関するヒント より>
このゴールに達することはそんなに困難だとはいえ、われわれのごく僅少な努力でも決して無駄ということはない。われわれは何物も失われないことを知っている。『ギーター』のなかにアルジュナがクリシュナに訊くところがある。
「この生で、ヨーガの完成を目ざして失敗した人々は、夏空に浮ぶ雲のように消されてしまうのでしょうか。」
 クリシュナは答える。「わが友よ、この世界には一つとして消え失せるものはないのだ。人がしたことは、その人自身のものとして残る。もしこの生で、ヨーガの成道を見なかったなら、次の生で再びそれをとりあげるのだ。」

この本の良いところは、なにげな流れで「バガヴァッド・ギーター」の教えに触れられること。いきなり読むには、ある程度こう、インド哲学的な関節の使い方を準備運動しておかないと難しいので。あと、クリシュナの性格のつかめなさに振り回される(笑)。なので、うちこははじめはヴィヴェーカーナンダさんに語ってもらったものを読むのをおすすめします。

<184ページ 人間の本性 より>
 われわれは現在の題目をとりあげよう。今われわれを通して働いているこの力は何であるか。昔古代の経典において、この力、この力の顕現は、この身体のかたちをとって現れた輝かしい実体に属していて、この身体が倒れた後まで現存すると考えられたことをわれわれは知っている。その後になって、とにかく、この輝かしい細身は力を代表していないという一層高級の観念が現れたことを発見する。かたちのあるものは何でも微粒子の結合の結果でなければならず、それの背後にそれを動かす何かが要求される。この身体がそれを操縦するために身体でない或る物を必要とするならば、輝かしい細身も同じ必要性によってそれを操縦するためにそれ自身以外の或る物を必要とするであろう。そこで、その或る物は魂、サンスクリットアートマン(Atman)と呼ばれた。いわば輝かしい細身を通じて外部の粗野な身体に働きかけるのはアートマンであった。輝かしい細身は心の容器と考えられている。そしてアートマンがその奥にある。それは心でさえない。それは心でさえない。それは心を働かし、心を通じて身体を働かす。あなたは一つのアートマンを有している。私も一つのアートマンを有している。われわれの誰もが別々のアートマンをもっており、別々の立派な細身をもっている。
(中略)
時間は心とともに始まる。空間も心の中にある。因果関係は時間なしには成立しない。継起という観念がなければ因果関係という観念もあり得ない。従って時間、空間、因果関係は心の中にある。そしてこのアートマンは心を越えて形のないものだから、時間を超え、空間を超え、因果関係を超えていなければならぬ。さて、時間を超え、空間を超え、因果関係を超えているとすれば、それは無限でなければならぬ。そうして、われわれの哲学における最高の思弁が現れる。無限なものは二つあることはできない。もし魂が無限だとすれば、ただ一つの魂があり得るだけである。そして種々の魂という考え方 ── あなたが一つの魂を有し、私も別に一つの魂を有するといったような考え方 ── はほんものではない。従って、本当の人間は一人で無限大で、遍在する霊である。そして、見かけ上の人間は本当の人間の限定物に過ぎない。

あえて訳が英語の流れのままなのが、ここはよいところです。一節一節、まるでゆっくりと歩みを進める経行(きんひん)のように読みましょう。身体を細身とするニュアンスも好きです。「── あなたが一つの魂を有し、私も別に一つの魂を有するといったような考え方 ── はほんものではない。」まで、まるで仏像を彫るようにひとつひとつ刻まれた文章。もはや芸術の域。

<187ページ 人間の本性 より>
誰でも数分間として同一の身体を保有しているものはいない。それでも、われわれはそれを同一の身体だと考えている。心についても同じことだ。(中略)あなたは動くことができる。有限な身体としてである。(中略)運動とは常に相対的なものである。

このへんから、身体修行をされているヨギのかたに、特にグッとくる内容に入っていきます。

<195ページ 人間の本性 より>
 それは実践的(プラクチカル)か ── これはもう一つの問題である。それは近代社会において実行することができるか。真理は、古代だろうと近代だろうと社会に対して敬意を払うものではない。社会が真理に敬意を払わなければならない。そうでなければ死ななければならない。社会は真理に応じて形づくれるべきである。真理が社会に対して自己をあわせてゆく必要はない。
(中略)
もしあなたがたが真理をあなたがたの社会に合致させることができず、最高の真理に適するような社会を築きあげることができないとすれば、あなたがたの筋肉の強さを誇り、あなたがたの西洋文化の優越性を説いても、それに何の意義があるか。もしあなたが起ちあがって、「そんな勇気は実践的でない」と言うならば、あなたがたの絢爛たる文化や偉大さを蝶々と自慢してみても、そんなことが何の意義があるか。ポンドやシリングやペンス以外に実践的なものはないのか。もしそうなら、なぜあたながたの社会を自慢するのか。最高の真理が実践できるような社会こそ最も偉大なる社会である。

ここは、カルマ・ヨーガについて再び説かれているところと読み取りました。

<199ページ 人間の本性 より>
 われわれは、自分があるがままに世界を見る。赤ん坊が一人室内にいて、金貨の入った鞄がそこの机の上に置かれ、泥棒が侵入してきてその金を盗むと仮定せよ。赤ん坊はそれが盗まれると知っているだろうか。われわれは内にもつものを、外に見る。赤ん坊は内に泥棒をもたないから、外に泥棒を見ない。

赤ちゃんの比喩については、以前うちこの師匠の言葉を紹介したことがありますが、インドのかたというのは、非常にこのへんの喩えがお上手です。

<202ページ あらゆるもののなかの神 より>
われわれが本当に欲するものは頭脳(ブレーン)と心臓(ハート)を合わせたものである。ハートは実に偉大である。生の大いなるインスピレーションが来るのは、ハートを通してである。私はハートのない頭脳ばかりよりも、頭脳のない小さいハートのほうがどれほど望ましいか知れない。ハートをもつものにとっては、生が可能であり進歩が可能である。しかし頭脳ばかりでハートのないものは乾びて死んでしまう。

うちこは日々、「テンション」というのは実に胸にあるなと思っていて、どうにもなぜかアッパーな時というのは、ハートの位置が上がっている。「Lift My Heart」な状態。どんなに顔で笑って前向きな言葉を発してみても、ここがどうにもならないことには、まるっきり心身一如できない。ハートが持ち上がっていて頭が冷静な瞬間を捕まえていくのに、ヨガのアーサナや呼吸法、瞑想はとてもよい修練法だと思います。ほんと。

<214ページ あらゆるもののなかの神 より>
理想をもったほうがよい。そして、この理想について出来るだけ沢山われわれは聴かねばならぬ。それがわれわれのハートに入り、われわれの頭脳に入り、われわれの血脈に入って、遂には、それがわれわれの血の一滴一滴にまざりあい、全身のこまかい気孔一つ一つに滲透するまで、そうせねばならぬ。われわれはそれを冥想せねばならぬ。「ハートに満ち溢れて口が語る」、そしてハートに満ち溢れて手もまた働く。

ここ、しびれます。思わず「ごちそうさまです」と手を合わせてしまいそう。

<216ページ あらゆるもののなかの神 より>
 この生命の唯一性、この万物の唯一性は、ヴェーダーンタのもう一つの偉大な題目である。わえわれは見るであろう、これは一切のわれわれの不幸が無知によって生ずることを証明するのだ。(中略)人と人、国民と国民、地球と月、原子と原子との分離よ。この原子と原子との分離という観念から一切の不幸が生れてくる。しかしヴェーダーンタは、この分離は実在しない、それはほんものではないと言っている。それは表面上の単なる見かけに過ぎない。事物のハートにはまだ統一性が宿っている。

少し難易度が上がります。うちこもここは何度か読み返したのですが、「"分離を統合しよう"とするのではなく、"分離が本物ではない"と考えるのです」ということかと思います。とすると、ヨーガの行で心を統合しようと考えたらそれはヴェーダーンタではなく、ヨーガの行で分離のない姿に帰ろう、というのがヴェーダーンタ的なヨーガと読み取れます。そして、それが制限の中の自由ではなく、本物の自由であると、そのように説かれているとうちこは解釈しましたが、これはあくまでも個人的な読解。その時の段階によって解釈が変わるかもしれません。ひとつ思うのは、「身体を動かして気持ちいい」だけで終わってしまうには、ヨーガは深すぎます。ということ。

<233ページ 人間は死後どうなるか より>
われわれを道徳的にしているのは警官だ。われわれを道徳的にしているのは社会の意見だ。(中略)そこで、偽善者にはならないようにしようではないか。われわれは宗教的ではないし、他人を見下す権利はないと白状しようではないか。(中略)そして宗教を実現したとき、真実に道徳的になるだろう。

出ました! ヴィヴェーカーナンダ節。うちこは聖師、博士、スワミと呼ばれる人の「節」萌えだったりするのですが、ヴィヴェーカーナンダさんの最高の持ち味は、こういうところにあります。「ぶっちゃけ大王」な感じがたまりません。沖先生とはまた別のニュアンスで、最高。

<241ページ 人間は死後どうなるか より>
 ここに美しい譬喩がある。自我を騎手としてこの身体を戦車として思い描け。知性を馭者とし、心を手綱とし、そして、官能の欲を馬として思い描け。馬がよく訓練されて手綱が丈夫で、よく馭者(知性)の手に握られておれば、目標に到達する。目標とは彼、遍在者の国でる。しかし、馬(官能)が統制できず、手綱(心)がうまく扱えないものは破滅に至る。あらゆるもののなかにあるこのアートマンは官能の眼には自己を顕現しない。ただ心が純化され洗練されたものが彼を実現する。

これはヨーガの言葉の説明の中で最もスタンダードなものですが、いちおうメモとして紹介しておきます。ここでまた「官能」という言葉をチョイスするところがたまりません。芸術だ。

<244ページ 人間は死後どうなるか より>
昔、人々は森に棲んでいた。お互に食い合っていた。近代になると、お互のの肉を食い合いはしないが、お互にだまし合っている。国国や都市がだまし合いで破壊された。それはああり進歩を示してはいない。(中略)ただ一つ私にハッキリしていることは、欲望が不幸をもたらすということだけだ。

ものすごくわかりやすかったので、紹介しておきます。本当にバリエーションの幅が広い。

<254ページ 宇宙 より>
種子は樹木から生ずる。だが直ちに樹木にんるのではない。ある一定の無活動の期間がある。あるいは、非常に微妙な、目に見えない活動の期間がある。種子はある時間、土中で働かねばならぬ。それはバラバラに砕けて、いわば退化するが、その退化の状態から再生があらわれる。この宇宙の全体も最初、一定期間目に見えない極微の形式で働かねばならぬ。それは混沌(カオス)と呼ばれ、混沌から新しい創造が始まる。この宇宙の目に見える顕現の全期間 ── より微妙な形式に落ち込んで、ある時期そのままに続き、再び起きあがってくる間 ── はサンスクリットでカルパ(Kalpa 却波)すなわち循環と呼ばれる。

ここの自然科学的な解説は、うちこの大好きなスリ・ユクテスワ師に少し似た印象を持ちます。


こりゃ名著だよぉ。こんなに芸術的にヨーガを語られちゃあ、もうやるしかないですもの。プラクチカル・ライフね。


昨日、今日の2日に分けて紹介した「生きる秘訣」は非常に古い本で入手困難ですが、今は第一部と第二部が別々の本で読めます。(日本語がずいぶんと洗練されてしまっていますが)その2冊へのリンクを張っておきます。
以下の青い「カルマ・ヨーガ ― スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演集」は以前の日記でも感想を紹介しています。

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