うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

星の巡礼 パウロ・コエーリョ 著


スペインのキリスト教カトリック系「RAM教団」での修行物語。
密教的な修行がたくさん出てきて、ヒンドゥー×ヨーガ、イスラーム×スーフィーのような世界。
物語と修行が交互に進んでいく構成で、わたしは修行の内容も興味深く読んだのですが、そのなかの「種子の練習」「RAMの呼吸法」「音を聞く実習」あたりは思いっきりヨーガ。「種子の練習」はヨガ・ニードラの子ども用スクリプトとそっくりです。

RAMの修行はあまりにも簡単だから、君のように人生を複雑にしすぎている人は、その価値をほとんど認めようとしない。しかし望むことは何でも、完全にどんな事でも、人々が実現できるようにするのが、この修行なのだ。
(第二章 サン・ジャン・ピエ・ド・ポー)

このあたりで、この本は「自分は特別な知識を得る機会に恵まれた人間」と思いたい人をそそる系か?! 引き寄せ大好き案件か?! と思ったけど、そうではなかった! 前半の第三章で主人公の中に発する思い「自然それ自体も悟りを求めて旅をしているのだ。」というフレーズからいっきにスピリチュアル・ワールドへ没入していけるかと思いきや、そうではない。ここが、この本のおもしろいところ!


指導者のついた修行モノですが、ベスト・キッドのような建て付けではなく、平岩弓枝西遊記とおなじ関係で仕立てられています。
説明しますね。このテの物語には、おもにこのような系統がありまして

  • グルや師匠は「絶対」

⇒例:『べスト・キッド』『ほとんどの西遊記

  • グルは、役割上のグル。弟子と一緒に学んでいく

⇒例:『スクール・ウォーズ』『平岩弓枝の西遊記』(←まじ名作!)

ストーリー上は、「ガイド」「インストラクター」なので、スター・ウォーズでいうオビワン的な人が登場します。この人が、ぺトラスさん。「平岩弓枝西遊記における三蔵法師」が泣き虫先生方面でたまらん男であるのと同じくらい、「星の巡礼におけるガイド・ぺトラス」もまた、たまらん存在です。しかも、なんというか、高田純次系なんです。彼、スペイン人なんでね(笑)。
以下、ぺトラスさんの台詞を中心に紹介します。

<第三章 創造する者、創造されし者 より>
「目的に向かって進んでいる時は」とぺトラスが言った。「その道程に注意を向けることがとても大切だ。その場所へ達するには、どの方法が一番良いか教えてくれるのは道そのものであり、そこを歩いて行くわれわれを道は豊かに育ててくれる。これをセックスにたとえることもできる。前戯の抱擁が、オーガズムの激しさを決めるだろう。誰でも知っているようにね。(以下、すごくいい説明が続きます)」

ぺトラスさんは、瀬戸内寂聴系です。



<第四章 自分に対する愛と寛容 より>
死んだ夢はわれわれの中で腐り始め、われわれの全存在を浸し始める。われわれはまわりの人々に冷たくなり、さらにはその冷たさを自分自身に向け始める。こうした時、病気やノイローゼになるのだ。

若干、沖正弘先生も入っております。



<第五章 メッセンジャー より>
「キリストは不倫をした女は許したが、自分にいちじくをくれなかった男をのろった。僕だって、ただよい人間であるために、ここにいるわけではないんだ」
 これで終った。彼の見方によれば、問題は片づいたのだった。聖書が再び彼を救った。

太宰治の「駈込み訴え」を読んだ後だったので、このぺトラスさんのコメントがかなり沁みた。



<第六章 愛 より>
しかし、イエスは、自分の師をどうすればもっと偉大にできるか知っている男にほうびを与えている。彼がすぐれた説教者だっただけでは、人々はイエスを信じなかった。彼は自分に従う人々に奇跡を行い、報いなければならなかったのだ。

ぺトラスさんは、池上さんのような無双体質。



<第七章 結婚 より>
われわれは常に、自分流の宇宙の解釈を人に信じこませようとしている。自分と同じように信じている人が多ければ多いほど、自分の信じることは真実だと確信できるようになると、われわれは考えているのだ。でも、そういう風には決してならない。

この章では、ぺトラスさんが「エロス」「フィロス」「アガペ」という三つの愛について語りだします。先にも書きましたが、ぺトラスさんは瀬戸内寂聴系なので、かなりおもしろいです。



<第八章 法悦 より>
アガペは好きという感情よりずっと深いものだ。それは私たちの内なるスペースを満たし、おおいつくし、われわれの攻撃性をつまらないものに変えてしまう感情なのだ。

過去のわたしであれば、ここまで読んで「アガペ=サットヴァ=梵我一如」と理解してしまったであろう。この部分は、ある意味リトマス試験紙のよう。
実際ぺトラスさんはのちに、こんな事を教えてくださいます。



<第十二章 狂気 より>
われわれは誰でも、内側で燃えている狂気の炎を持っている。そして、それはアガペによってかきたてられるのだ。

アガペは、ラジャスなんですよー。ってね。ぺトラスさん、夏目漱石みたい!(いろいろ省略しすぎですが、そのうち読書会などで語りますよ)
以後は「ぺトラス・グルジ」に呼称が変わります。



<第九章 死 より>
人生で最もすばらしいことをしようと彼らに思わせるものは、死そのものであることを、人は誰も見ようとしない。

グルジがどんどん仏教的に……



<第十章 祈り より>
自らを憐れむ者、自らを人生において不当に扱われている善人だとみなす者、そして、自らに起こったことに対し、自分はそれに値しないと思っている者をあわれみ給。このような人々は、よき戦いを戦うことは決してできません。そして、彼らに対して残酷な者、彼らの行動に対して悪しか見ず、世界中の不正は自分の責任だと感じている者をあわれみ給え。なぜなら、そのどちらの種類の人々も、『しかれども、あなたの頭髪の一本一本さえも数えられている』という、あなたの法を知らないからです。

ぺトラス・グルジの祈りのフレーズより。ニーチェ親鸞も丸呑みだなオイと思った先の「頭髪の〜」は新約聖書『マタイによる福音書』10章30-31節らしい。
この部分を読んで、あらためて「神の全能」だけでなく「神の身近さ」を説くコーラン第50章第16節(ガーフ章)「われは人間の頚動脈よりも近いのである」のジゴロっぷりを想う。
このあとは、主人公が悟り始めます。そのプロセスはほぼヒクソン・グレイシー(ギーターの6章5節)です。ぜんぜん紹介していなかったけど、この物語の主人公はブラジル人です。
そんな彼のいくつかの重要な悟りの中に、こんなフレーズが出てくる。

<第十五章 エル・セブレロ より>
私の努力のすべては、報酬に向けられていた。私たちが何かを望む時、私たちは心の中に、何が目的でそれが欲しいのか、はっきりとした考えを持っていなければならないということを、わかっていなかったのだった。

このあとが、いい。ここはサンカルパを理解するのに、とても役立ちそう。
この本ではしきりに「ドン・ファン&カルロス・カスタネダ」が引用されるけど、いやいやなんの「ぺトラス&パウロ・コエーリョ」もじゅうぶん彼らを超えている。エンタメ性も含めて。
おすすめよ。

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