うちこのヨガ日記

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ダルマキールティの論理学(中村元 選集25「ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想」より)


先日の感想にも書きましたが、この本はもともと「ヴァイシェーシカ・スートラ」を読むために手にし、ニヤーヤに触れるのはもっと後(来年とかさ来年とか)にしようと思っていました。ニヤーヤ学派の論証学は、まえに中央公論社が出している「バラモン教典」にあった「ニヤーヤバーシュヤ第一篇」の服部正明訳を読んで、「なんだこの学派は!」と、そのねちっこいおもしろさを垣間見てしまっていたので「あとでじっくり……」と思っていました。

この中村先生の本には「ニヤーヤ・スートラ」の訳が納められていますが、解説自体は仏教も含んだ「インドの論証学とは」というまとめで書かれています。慣れるまではむずかしく感じるかもしれませんが、論証をしていくものなので、脳内を「法廷ドラマを見ている設定」にするとかなり入りやすいです。でも取り扱っているのは、物質的なことだけじゃない。精神的なこと(解脱)まで入る。そういう感じ。

ニヤーヤ周辺世界は魅力的な人が多くて、なかでもひときわクールなバランス感覚を持つダルマキールティについての、中村先生の解説がアツい。今日はそのダルマキールティの説明部分を紹介します。

<74ページ 第3章 仏教論理学 二 ダルマキールティの思想的立場>
(冒頭)
 ここに、千三百年の隔たりがありながら、わたくしの前に立っている一人の哲学者がいる。それはダルマキールティ(Dharmakirti ほぼ六五○年ころ)である。
 東洋の哲学は非合理主義的であるとか、直観的であるとか言われているが、かれほどに合理主義を徹底した哲学者は、人類の思想史においても稀であろう。かれは仏教の論理学者であった。そこで、かれの場合には宗教と合理主義ということが問題になるのである。
 かれは『論理学小論』(Nyayabindu)という書を著わした(日本の仏教学者は多くは「正理一滴」と訳している)。この書は漢訳されなかったために、日本のみならず東アジア諸国には知られていなかった。しかし驚くべき書である。
 多くの教義学者たちが聖典を権威としてそれに準拠していたのに、ダルマキールティは聖典が独立の知識根拠となることを否定した。人間の認識は、直接知覚(直観 pratyaksa)と推理(anumana 思考)との二つの源泉によって成立する。直観は無内容であり、思考のはたらきが加わることによって概念的認識が成立する。認識は直感によって与えられた素材に概念による構想作用(vikalpa)がはたらいて成立する。
 ここまで述べてくると、ひとは「あれ! カントのことをいっているのではないか?」と思うであろう。ダルマキールティの思想におけるこの構造を見抜いたのは、ロシアのスチェルバツキー(シチェルバトスコイ)という学者(1866─1942)である。かれは一生ダルマキールティの哲学に憑かれていた。


(中略)


 ダルマキールティの所説はしばしば唯識説のなかにおさめられている。かれ、ならびにかれ類した哲学説は唯識説によると、知識の対象(prameya)、認識(pramana)、認識の結果(pramanaphala)は、心とかかわりのある限りにおいて存在するという。しかしダルマキールティはアーラヤ識を説いていない。かれは論理学者であり、認識論の哲学者であった。



(中略)



 ところでダルマキールティによると、刹那ごとに生滅するもの、すなわち実際にはたらきのあるものが「勝義においてあるもの」(paramarthasat)であり、人間の思惟によって構想されたものは、「真理を覆っている存在」(samvrtisat)にすぎない。前者は「それ自身を特質とするもの」(svalaksana)であるが、後者は思惟によって構想された「共通性」(samanyalaksana)にほかならない。
 ナーガールジュナの場合には、現象世界を虚妄のものとみなして「空」という原理を真実であると解した。ところがダルマキールティはもはや「空」をくどくどしく説くことをしなかった。そうして空見(sunyatadrsti)を排斥している。
 この立場に到達すると、徹底した現実肯定となるから、必ずしも解脱説を説く必要はなくなったのであろう。
 しかしかれは宗教性をもっていた。ブッダは『論理学小論』(Nyayabindu)の中では論じられていないが、『知識批判書』(Pramanavartlika,1,7)には「世尊が知識手段であること」(bhagavatah pramanyam)という標題のもとに、
 『世尊は、虚偽を除去するための認識手段である』(pramanam bhagavan abhutavinivrttaye)
という。そうしてその理由を詳細に論じている。

わたしはサーンキヤ学派のイーシュヴァラクリシュナが「めちゃくちゃクールなはずが、インド演歌が捨てきれない」というギャップに陥っている風情に萌えるのですが、このダルマキールティのバランス感覚は、かっこよすぎて鳥肌が立ちます。



<100ページ 第4章 インド論理学の諸問題 二 矛盾の原理 (三)矛盾律の否認>
 ところでダルマキールティなど仏教の論理学者たちによると、矛盾律というものは、意味をなさないものである。かれの哲学によれば、個物というものはない。個物にもせよ、個人にせよ、瞬間、瞬間が実在なのである。それぞれの瞬間は瞬間ごとに異なっている。だから矛盾率の適合する余地がないのである。
 われわれが「これが白い」という判断を下す場合には、われわれはすでに二分法(dichotomy)をとり挙げているのである。すなわち「白い」という限定を受けた部分と、「白くは無い」という、限定の希薄な部分とに分けているのである。「白い」ということをはっきり表象するときには「白くない」ということを確定的に除外しているのである。両者のあいだには限界線があるが、その限界線は「白い」のでもないし、「白くない」のでもない。
 同様に火を認識する場合には、一つの対象について「ここにあるものは火である」と考えるが、それはまた「あそこにあるものは火ではない」と考えることでもある。
 だから思考においては、考想すること(kalpana, construktion = ekikarana)と分別すること(vikalpa = dvaidhikarana, dichotomy)とは、実際問題として同じことを意味している。
 われわれの表象、概念、判断、推理の作用は、この二分化(=分別)を経過している。それは純粋感覚(pratyaksa, pure sensation)と対立するものである。
 矛盾の法則とは、あらゆる認識は二分化にもとづき、相関的だということである。一つの物を認識するということは、その物をそうでないものと対立させることによって可能なのである。

仏教のこういうドライな感じが、「かけがえのない今」になってしまうとたいへん残念なので、「今でしょ!」が流行ってよかったと思う。



ニヤーヤ・スートラ」は「ヨーガ・スートラ」のように「パタンジャリ家・家訓!」みたいなリストアップ形式ではなく定説にいろいろな視点で議論を重ねていくのですが、その議論のありかたまでかなり細かく定義されています。

5・b・9
意義内容の理解されえない議論とは、三回発声されてもその意義内容が聴衆にも理解されない議論である。

こういうのがたくさんリストアップされています。


これにヴァーツヤーヤナが加えている注釈がおもしろくて、具体的にその要素を3つあげています。

  • 曖昧な、多義的な語(slista-sabda)
  • 用語が一般的に知られていないもの(apratitaprayoga)
  • あまりに早口にしゃべったことば(atidrutoccarita)

自己啓発本や業務効率化系のコンテンツで「残念な人」みたいなリストがあるけど、古墳時代(350年ごろ)に、インドではここまでの註解がされている。しかもこっちのほうがわかりやすい。どいういうことだ(笑)。
多義的な語に甘えず具体的な言葉で、専門用語や業界スラングには説明をつけ、ゆっくり話す。だいじだー。