1961年12月〜翌年4月までの学術探査隊によるインド旅行記。昭和38年の本です。
この本は長崎の古本屋さんで、ヨガ友のかおりさんがふざけて「うちこちゃん、インドがもだえてるらしいよ」といってネタにしてきたものを悪ノリで拾う流れで買ったのですが、読んでみたら以前紹介した「裏がえしのインド」の西丸震哉氏と一緒に調査へ出かけた人の旅行記でした。
なので、出てくる場所もルートもまったく一緒です。が、こっちのほうがちょっぴりインテリジェント(笑)。リシケシでのヨガの記述は西丸氏編の方が多いです。日本山妙法寺の八木さん、高橋さんもでてきますが、こちらも西丸氏編の方が説明は多いかな。
この著者さんの視点では、宗教観の説明がとてもよかったです。それから、とにかくこの本を著すにあたっての志がかっこいい。こちらも負けじと名著です。
<あとがき 末尾の文章>
なお、本書についての批判、あるいは不明の点があったら、ぜひわたくしにご連絡願いたい。諸賢の教えを乞い、できればこれからもいっしょにインドについて学んでいきたいと思う。一九六二年十二月十八日 著者
とにかく、インドに愛を込めて書かれています。
そしてこの本のタイトルも、実は深い。
<最終文。むすび>
"若いインド"はそうした古いインドの遺産(補足:ヒンズー教、カースト、パルダなど)を重そうに引きずって進んでいる感じだ。それは新興独立国の宿命みたいなものだが、インドはとくにそれがひどいように思う。
ある人は「インドの歴史は百年単位で見なければならない」といったが、あるいはそうかもしれない。「古い」とか「若い」とかいうことは、百年単位の歴史の中では、とるに足らない問題だろう。インドは "百年単位" で、前進しつつあるのだ。古い殻を引きずり、もだえながら──。
ネタにしている場合じゃなかった。
このかたも、リシケシのシバナンダ・アシュラムでのエピソードを書かれています。ここでも引用紹介しますが、それ以外も全般すごく歴史を紐解きやすい内容になっています。
<12ページ 幻の原住民 より>
「ない」の漢字「無」は、インドの古語サンスクリット語からきた言葉だが、その語源は、突然なくなったムー大陸の「ム」だという、落し話のような説も伝えられている。そして、その話の結末は、「古文書のみつかったオリッサ州の山奥には、ムー大陸と関係のある種族が住んでいるのではないか──」ということだった。中部インドのオリッサ、マディヤ・プラディッシュ州境の山岳地帯に住む原住民は「ムー大陸の末裔かもしれない」とまじめに説く人が、日本にもインドにもいる。
頭でっかちの人たちとの飲み会で、場つなぎに使えそうなネタ。
<32ページ 蛇と原住民 より>
道でコブラにあったら、その周囲に輪をかいて、やはり呪文を唱える。コブラも動けなくなる。この呪文は門外不出、よそものには教えないことになっている。
アデバジー(族)たちはトラやクマはそれほど恐れないが、毒蛇には強い憎しみと恐怖心をもっている。
「トラやクマのほうがこえーだろー」と思うのだけど、ちがうらしい。
<34ページ 蛇と原住民 より>
「人間は死んでもすぐに生れかわってくる」というヒンズー教や仏教の輪廻思想が、ここにもあった。したがって死ぬことをそれほど恐れてはいない。山地族の中にはいまでも果実酒に酔って人を殺すこともあるそうだが、「人を殺して悪かった、という観念はありませんね」と、年二回、部落を巡回する税務の役人がいっていた。
そ、そういう観念に繋がるの? とびっくり。
<58ページ 二つの奇蹟(全文)>
東パキスタンから逃れてきた人たち、あるいは東ベンガル州を失って困っている人たちの希望は「インド独立の志士スバス・チャンドラ・ボース」の再来である。
ボースは第二次大戦中、インド独立のために日本軍と結び、ビルマでインド国防軍を結成したが、祖国の独立を見ずに台湾で死んだと伝えられている。ガンジーが「独立の父」と呼ばれるのに対し、ボースは「独立の英雄」といわれている。インドの東側では、哲学者タイプのネルーよりも、どちらかといえば行動派のボースの方が人気がある。とくに避難民や西ベンガル州の人たちは、西ベンガル出身のボースに親しみと信頼を寄せている。それは「ボースがいたら、インドは東ベンガルをむざむざ手放さなかった」という期待にもつながっている。
「ボースは幾回となく英国に捕われ、殺された、死んだという噂が流れたが、いつも生きていた。まだどこかで生きているだろう」という大学生もいた。
全インド人の声望をになっているようなネルー首相も、カルカッタでの評判はよくない。「ネルーがカルカッタにきたら、反対デモをかける」という学生たちもいるということだ。
カルカッタから南へ六百キロも下ったビジワダという町でも、わたしは英雄再来説にぶつかった。この町の四つ角には、あちこちにボースだけの、あるはガンジーを中心にボースとネルーが左右に並んだ石の像が建てられていた。ボースだけの石像には、花輪がかけられているのもあった。
この町の医師会の人と話し合ったとき、
「君たちは日本人だから、ボースがいまどこにいるか知っているだろう」。
「ボースはネルーが失敗したときにでてくるのじゃないかね」とまじめに問いかけられた。いずれも老医師たちだったが、ボースを慕う気持は信仰に近いものだった。
そんな話をきいているうちに、わたし自身もボースの最後が気になって、カルカッタに戻ってから、戦時中ボースとの連絡係をしていた国塚一乗氏に確かめてみたりした。
わたしだけでなく、インド政府さえもそんな気持ちになったらしい。十年前、ボースの死を公式発表しておきながら、国内の「ボース生存説」をおさえきれなくなった政府は、一九六○年、各関係国に「ボース調査団」を派遣した。その報告書が翌年議会に提出されたが、国塚氏の話と同様、「ボースは台北で飛行機事故によって死亡した」であった。それにもかかわらず、いまだにボース生存、ボース再来を信じている人がいることは事実である。
「ボース再来」の奇蹟が、まったく空想に終ろうとしているのとは対照的に、ネルー政府の奇蹟「ダンダカラニア開発」は着々と実現されている。
ものすごい求心力。インドに親日家が多いのは、この人が日本と協力してイギリスと戦おうとした頃からはじまった気風なのだそうです。
<71ページ インド版大衆浴場 より>
ヒンズー教徒は聖地ベナレスで息を引き取り、ガンジスに葬られるのを至上の幸福と信じている。死期が近づくと財産を整理し、親類縁者に別れを告げてベナレスにやってくる。幸か不幸か、ベナレスにやってきて長生きをする人がいる。そのうち金がなくなる。金がなくなって生きていくためには乞食になるほかない。寿命の計算と財産のバランスがとれなかった人は、こうして乞食になる。それにここには慈悲深い善男善女が集まるから、乞食でけっこう暮していける。
来てはみたけど、死なないなぁ。と。なるほど(笑)。
<79ページ 自由の宗教 より>
キリスト教のキリスト、仏教の釈迦、回教のマホメットのような人物は、ヒンズー教には見当たらない。ネルーの言葉に従えば、ヒンズーという言葉が宗教と結びつけられたのはずっと後のことで、インドの宗教を指す適当な言葉は「アールヤ・ダルマ」(聖なる法)であるという。一般にいうインド哲学というのは、私たちのみたヒンズー教とは別物であろう。著名なインド哲学者であるシバナンダは「ヒンズー教はすべての宗教の母体であり、自由の宗教である」と定義して、古代インドの昔から、インドに侵入してきたすべての異民族、アーリア人、匈奴、ペルシャ人、アフガン人、アラビア人などを吸収していることを指摘する。ヒンズー教徒によれば、異質の仏教、ジャイナ教までもヒンズー教の一部とみなしている。釈迦に最高のカーストであるバラモンの地位を与えている一派(ビシュヌ派)もあるくらいだ。
しかし、ヒンズー教が宗教とみなされる裏には、やはり古くから伝わる教典、聖典といったものがある。「ベーダ」というのがそれにあたるのかもしれない。
この「丸呑みメソッド」はすごいものがある。ヒンズー教とインド哲学。
<84ページ ヒンズー教と仏教 より>
この体制(補足:バラモンが武士階級の革命にあわず、最高級の生活を維持できたこと)が紀元前数千年前から、無傷のまま続いてきたわけではない。釈迦の仏教、マハビーラが開祖のジャイナ教は既存のバラモン教に対する痛烈な批判であった。とくに仏教は紀元前三世紀アショカ王の支持によって全インドに広がった。多くのインド人が仏教徒に改宗した。それがいつの間にかなくなってしまったのである。ここで興味深いのはヒンズー教が「いつの間にか仏教を駆逐してしまった」ことである。
ある国の支配的な宗教が、別の宗教と交替するとき、常に血が流されることを歴史は教えている。宗教戦争とか十字軍の遠征がその実例である。不思議なことに、インドではそれがなかった。バラモン教はある時期に仏教にインド精神支配の座を譲り、のちにそれを再び取り戻した。最初の交替のときはアショカ王という強力な政権のバックボーンがあった。これはキリスト教がローマ帝国の政治権力と結びついて広まったことと外見上はよくにているが、ローマ帝国が周辺の蛮族を手なずけるためにキリスト教を利用したのに対し、アショカ王は「法をもって国を
統治する」ために仏教に帰依し、仏教に政治支配の拠り所を求めた点で相違している。
このあと「平等を説いていることで、組織として統治する力にならなかったのが仏教の弱点だった」というようなことが書いてあって、うなった。組織運営とカルマ・ヨーガの両立はすげーむずかしいと思った。
<87ページ 仏教の自然死 より>
紀元四世紀にインドへきた中国の僧法顕はいまのビハール州周辺で祇園精舎、竹林精舎の繁栄ぶりをみたが、それより三百年後にやってきた三蔵法師(玄奘)は、荒れはてた仏跡をみて仏教が衰えていくのを知った。アジャンタの石窟でいえば二番目のものが法顕のきたころ、最後のものが玄奘のきたころにつくられている。
すごく、すごくがっかりしたんだろうなぁ。じゃなきゃあんな図書館状態でお経背負って歩けない。
<116ページ 腹七分の精神 より>
「日本ではヨガというと、珍しい体操か、せいぜい美容体操くらいにしか理解されていません」と弟子の一人にいうと、「それで幸福になるなら、それもヨガですよ」と彼はいった。しかし、別の弟子は「あの人は体操が非常に上手だが──」といったわたしの質問に「彼は体操の教師でヨガの行者ではありません。体操を教えて食っている人です」と答えて、「体操をするもの、すなわちヨガ」という考え方を訂正してくれた。
いまでも変わりませんね。前者のお弟子さんの言葉も正しいと思う。どっちもいいね。
<117ページ 自然の医学「アーユルベーダ」 より>
医学についての「知識」(ベーダの本来の意味は「知識」である)が、経典として発達してきたのは、医学が宗教(バラモン教)とともにあり、僧侶が医師をも兼ねていたことを証明している。当時医療に使われていた生薬(しょうやく=薬用植物、動物、鉱石などからつくった薬)は、五百余種にものぼった、と記録されている。
次の紀元千年以降がアラビア時代。回教徒がインドを侵略するようになり、同時にアラビア医学がインドに入ってきた。アラビア医学の影響をうけた医学を「ウナニ」とよび、これも現在、インドで命脈を保っている。
「生薬」にこんな解説がつけられていたんだ昭和38年。というのを記録しておきたくて。東洋医学は浸透したね。こっちのほうが近所のはずなのにね。養命酒と高麗人参の貢献はでかい。
<130ページ 自然改造と意識の改造 より>
平らで広い地形、灼熱の太陽という自然の条件は、すべてのインド人を苦しめてきた。水に侵され、熱さに責められた人たちが、自然に対してとった態度は、結局、自然の威力を認めたうえで、自然と同化しようということだった。「水を治めるもの、国を治む」というのはすぐ隣の国、中国のことわざだが、インドでは、そんなことわざは生まれなかった。自然を征服することより、自然になじもうと努力してきた。それが花を愛し、生き物を愛し、自然の教えにしたがって生き、自然に帰っていく独特の人生観を生みだしたのだろう。
こういう国がなくなってしまうと、それはそれで悲しいのだけど、インドも歩いていかないといけないんだよね。
<134ページ 華やかな結婚デモ より>
さてアグラの街角で、オープンカーに乗った花婿殿にきいてみた。
「君のお嫁さん、どんな人?」
すると当人にかわって隣にいた男が四つ切り大の写真をとりだした。美人だな、と思ったら、なんとこれは映画女優のブロマイドではないか。
新郎新婦は挙式後、はじめて顔を合わすこともある。結婚してみたら、幼なじみだったというのはいい方で、相手がオシだったり、ツンボだったり、という花嫁、あるいは花婿 "受難記" はインドのメロドラマの主流を占めてる。オープンカーの婿さんも、妻となるべき女性の顔を知っていたかどうか──。花嫁がブロマイドのごとく美人であれかし、と祈ったものだ。
今では使ってはいけないと言われそうな言葉が普通にバリバリ使われている昔の本は、リアリティがあってよい。
<136ページ 華やかな結婚デモ より>
(著者と、ガイドのカリダス君の会話)
「カリダス君。君の理想的な女性は?」
「アイ・ドント・ノー。ぼくのワイフは母が選んでくれるだろう」。
「もし、その人が君の気にいらなかったら?」
「母がいいというのだから、きっとぼくも好きになれる」。
これうちこの友達もそうなんだけど、本当にそういうマインドなんだよね。驚く。それで結婚した奥さんと別居できるようになった時代が「今」かな。それもデリーの大都会の例なので、少数だと思う。
<138ページ インド青年の情熱 より>
昔、ヒンズー教の戒律の一つに「サティー」というのがあった。夫が死んだら、妻も死ななければならない、というおきてである。夫に先立たれた妻は、夫の遺体を焼く火にとび込んで死ななければならなかった。
燃えさかる炎をみて、恐怖にふるえている妻を、親戚の人たちがよってたかってかつぎ上げ、火の中に放り込んだ。そのとき、苦しさのあまり爪でひっかいた跡や、この世の名残りに手形を押した跡が、いまでも旧家や城の壁に残っているそうだ。
妻は夫の "付属品" で「生れたときは別々でも、死ぬときは夫とともに死ぬ」という考え方だ。もっとも、サティーは夫の死後の遺産分配を、少しでも多くしようと世の男どもが考えたという説がある。動機がなんであれ、女性の権利や生命は虫ケラ以下に扱われていたことは事実である。
こういう背景は、知っておくのと知らないのとでは、やっぱりすこし、違うんだ。「インド人が隠したいマインドの奥の奥の歴史」という部分。
<164ページ インド的土地改革運動 より>
「土地は神がわたしたちの祖先に与えてくれたものです。空気や水と同じで、私すべきものではありません。もしあなたに四人のこどもがあれば、五人の息子がいると思って一人分を神に返しなさい」といって、土地献納運動(ブーダン運動=ヒンズー語でブーは土地、ダンは奉仕の意味)をすすめているのは、ビノーバ・バーベ翁である。
神を説くことによって地主の目をさまし、非暴力に訴えることによいって暴動を防ごうとしたのだ。
ネルーがガンジーの遺産のうち政治的な面を受け継いでいるのだとすれば、ビ翁は精神的な面の後継者といえる。
「ビノバ・バーベ」のほうがよく用いられる綴りのようです。ガンジーの4人の弟子のうちのひとりなのだそうです。知らなかった。
インドという国については、古い情報のほうが面白いと思うようになりました。
「ほら、意外と進んでるでしょ」とか「ほら、そんなことないでしょ」な情報があふれているので。実際いまのインドはすごく進んでいると思うのだけど、人の気持ちの根っこのところはやっぱり古いインドがしっかりある。だからこそ、昔のインド旅行記をいま読むと面白いと感じます。