先日紹介した「日本辺境論」と同著者さんの本。あまりに面白くてイッキ読み。
面白かったページのメモをいつも携帯に残しながら読みすすめるのですが、今回は使い慣れないiPhoneでうっかりメモを削除してしまい、2回読むことになりました。
内容は、大学の講義をベースに書籍化されたもので、今後メディア業界への就職も視野に入れている若者たちとのディスカッションも背景にあるようです。
さっそく紹介、いきます。
<24ページ 他者という力 より>
開花する才能は自分で選ぶものではありません。この能力が開花したら、金が儲かるとか、権力や威信が手に入るとか、人に自慢できるとか、そういう利己的な動機に賦活されて潜在能力は発動するわけではない。もちろん、そういうエゴイスティックな動機づけも才能の開花にはいくぶんかは役に立つかもしれません。でも、そんな「せこい」動機では、潜在能力の全面的かつ爆発的な開花というようなカラフルな出来事は起こりません。人間が大きく変化して、その才能を発揮するのは、いつだって「他者の懇請」によってなのです。
生かされている、の説明を現代人向けに。カタカナの使いどころがとても上手。
<28ページ キャリア教育の大間違い より>
教育の場に長くいた人間として、僕が経験的に言えることは、先ほども申し上げたように、人間の潜在能力は「他者からの懇請」によって効果的に開花するものであり、自己利益を追求するとうまく発動しないということです。平たく言えば、「世のため、人のため」に仕事をするとどんどん才能が開花し、「自分ひとりのため」に仕事をしていると、あまりぱっとしたことは起こらない。
カルマ・ヨーガの教えそのもの。「カルマ・ヨーガ(働きのヨーガ)」の現代要約版、といってもいいくらい。
<77ページ 患者は「お客さま」か より>
少し前に、ある国立大学の看護学部に講演で招かれたことがありました。講演の前に、ナースの方たちと少しおしゃべりをしました。そのときに、ナースセンターに貼ってあった「『患者さま』と呼びましょう」というポスターに気づきました。「これ、なんですか?」と訊いたら、看護学部長が苦笑して、そういうお達しが厚労省のほうからあったのだと教えてくれました。
(中略)
「患者さま」という呼称を採用するようになってから、病院の中でいくつか際立った変化が起きたそうです。一つは、入院患者が院内規則を守らなくなったこと(飲酒喫煙とか無断外出とか)、一つはナースに暴言を吐くようになったこと、一つは入院費を払わずに退院する患者が出てきたこと。以上三点が「患者さま」導入の「成果」ですと、笑っていました。
当然だろうと僕は思いました。というのは、「患者さま」という呼称はあきらかに医療を商取引モデルで考える人間が思いついたものだからです。
手に取るように想像がつきすぎる。ヨーガ指導の世界にも同じ事がいえることも想像にたやすい。「お客さん」という扱いになった瞬間に、ヨーガの根幹にある「主体性」の教えは成立しずらくなる。「お金ギブ、テイクなに?」という無言のアジャスト分配要請などが発生する。(参考記事:以前ちょっとこのようなことについて書きました)ここの線引きで、生活が乗ってくるとホスト・ホステスと同じ技能が求められる環境もなくはない。そこでプロフェッショナルになれるか。どっちにしろ、ヨギならがんばればいいね。「要請」にあわせて。
<104ページ アルベール・カミュの覚悟 より>
「真に深刻な哲学的問題はただ一つしか存在しない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学の根本的な問いに答えることである。自余のこと、世界に三つの次元があるかどうかとか、精神は九つのカテゴリーを持つのか十二のカテゴリーを持つのかといったことは、その後の話である。そんなのはたわごとにすぎない。」
(中略)
カミュは現代の哲学者たちが論じている問題のほとんどは、「それを否認すれば生かしてやるが、それを主張し続ければ殺す」という究極の選択を前にしたときにただちに否認される類のものであり、だとすれば「たわごと」にすぎないと言い切ったのでした。
(中略)
ナチスドイツからフランスが「解放」されるときが来て、この青年が地下出版紙『コンバ』の社説を書き続けた、レジスタンス闘争の精神的な指導者その人であったことが知られるに至って、哲学者たちは青ざめました。
主張というのは「生き物としてどういう死にかたが自然と考えるか」を語ることと似ている。
<111ページ 戦争とメディア より>
メディアに対する最大のニーズをつくりあげるニュースソースは戦争です。
メディアはだから戦争が大好きです。戦争がないときは国内の政争でも、学術上の論争でも、芸能人同士の不仲でもいい、とにかく人と人とが喉を掻き切り合うような緊張関係にあることをメディアはその本性として求める。僕はことの善し悪しを言っているのではありません。価値中立的に「そういうものだ」と言っているだけです。メディアが本態的に「そういうものだ」ということをきちんと認めたほうがいい。そう言っているのです。そういう趨勢を勘定に入れた上で、メディアのあり方について考えたほうがいい。
「死の情報」が人を動かす。
<127ページ 知的劣化は起こっていない より>
出版危機についてさまざまな議論をこれまで読んできました。このすべてに共通するのは、読み手に対するレスぺクトの欠如です。正直に言ってそうです。これは出版だけに限らず、すべての「危機論」の語り口に共通するものです。
「レスぺクト」を語尾や文体から読み取れるかどうかって、ビジネスマンに欠かせないスキルだと思う。
<130ページ 出版は内部から滅びる より>
「読者は消費者である。それゆえ、できるだけ安く、できるだけ口当たりがよく、できるだけ知的負荷が少なく、刺激の多い娯楽を求めている」という読者を見下した設定そのものが今日の出版危機の本質的な原因ではないかと僕は思っています。
日々仲間たちと、この「口当たり」についてとことん議論する。まるでレストランの経営のよう。いっけんビジネスの現場っぽく見えないかもしれないこういう会話が、とっても重要だと思っています。
<131ページ 電子書籍の真の優位性 より>
これまで読者として認知されなかった人たちを読者として認知したこと。これこそが電子書籍の最大の功績だと僕は思います。
(中略)
そこにはたしかに読者に対するレスペクトが示されている。この態度は、こう言っては申し訳ないけれど、点数を揃えるために、無内容だとわかっている新刊書を次々と出し続け、読み継がれるべき古典的著作をあっさり絶版にしている一部出版社の姿勢と際立った対比をなしています。
消費者を創造することは、人々の知への尊敬がないとできない。本当にそう思う。
<144ページ 読者が「盗人」とされるとき より>
図書館に新刊を入れることに反対する人は、たぶん「自分の本を読む人」よりも「自分の本を書う人」のほうに興味があるのだと思います。だから、「無料で自分の本を読む人間」は自分の固有の財産を「盗んでいる」ように見える。でも、それはかなり倒錯的な考え方のように僕には思えます。
ITの世界でも「オープン化」は何年もあちこちで進んでいるけれど、盗まれない(=結局は囲う目的)の「オープンのためのオープン化」で終わるか、開けたところから大きな半径ビジネスで何かを生み出せるかの違いは、この志にあると思う。
<176ページ 「価値あるもの」が立ち上がるとき より>
ことの順序を間違えないでください。「価値あるもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返礼を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。「価値あるもの」を与えたり受け取ったりするわけではないのです。ひとりの人間が返礼義務を感じたことによって、受け取ったものが価値あるものとして事後的に立ち上がる。僕たちの住む世界はそのように構造化されています。
経済学の本には、人類最初の経済活動は「沈黙交易」であったと書いてあります。沈黙交易というのは、見知らぬ者同士が、それぞれのテリトリーの境界線上で、顔を合わせることなしに、特産物のやりとりをすることです。
全般ヨーガっぽいのですが、ここは特にインドっぽい。この「沈黙交易」=「感謝の心と対価の発生」の説明がとても心に残った。
<191ページ 拡がる「中規模」メディア より>
総数六○○万と呼ばれるブログには、これまで身辺雑記エッセイが多く含まれていました。ところが、ここにツイッターという新しいメディアが出てきました。これはいかにも日常の出来事を「随筆風」に点描するのにジャストフィットなツールですので、ブログの日記の書き手たちの相当数はすでにツイッターに流れています。いずれ、ブログにはそういう「やわらかいネタ」を控除した残りの、政治経済社会文化のもろもろも事象についての「演説」に類するものが残されるのではないかと僕は予測しています(はずれるかもしれませんけど。ネットの未来のことなんか、誰にもわかりませんから)。
でも、そうなると、ブログのコンテンツはますますマスメディアのそれと「かぶる」ことになります。ネットの読者たちも、そのうちに「このトピックについては○○ブログの情報精度が高い」とか「この論点については××分析が読ませる」といった情報をツイッターなどでばんばん流すようになるでしょう。その流れは止められないだろうと思います。
『「演説」に類するものが残される』の域とはほど遠いのですが、この日記をtwitter経由で知って読んでくださっている方がいるというのを知ることがある。ヨガに興味がない人にも、とあるトピックだけは刺さったりすることがあるからなんだろうな。と思う。どんなネタでもヨガネタに変換する精度が年々上がっているので、これまた微妙ですが(笑)。
<204ページ メディアとは「ありがとう」という言葉 より>
「私は贈与を受けた」と思いなす能力、それは言い換えれば、疎遠であり不毛であるとみなされる環境から、それにもかかわらず自分にとって有用なものを先駆的に直感し、拾い上げる能力のことです。言い換えれば疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力のことです。
「疎遠な環境と親しみ深い関係を取り結ぶ力」。ああ、結んじゃいましたよ結局(笑)。というわけで、この本はカルマ・ヨーガ本といってもかまわないでしょう。
これは多くの仕事仲間に読んで欲しいと思う一冊でした。
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