うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨーガ入門 ― ココロとカラダをよみがえらせる 佐保田鶴治 著

ヨーガ入門―ココロとカラダをよみがえ
佐保田先生が亡くなられた後に出版された本ですが、佐保田先生らしい表現が随所に見られます。そして、なんと「ベスト・ジャージスト」イラスト付き!
内容は「初心者に読みやすい文章」ではありますが、そうとう先のことまで書いてくださっています。沖先生の爆裂節も好きですが、佐保田先生の抑制のきいたオタク節も、やっぱりいいわぁ。
さっそく、ご紹介します。

<25ページ ヨーガはアクロバットではない より>
ヨーガの流行にまつわる困った風潮は、ヨーガによって超自然的な力を獲得しようとする人びとが少なくないことです。たしかにヨーガの修練によって超能力が、開発されることは否定できませんが、インドでは超能力の公使者、つまり呪術者のことは、「ファキール」と呼んで、「ヨーギー(ヨーガ行者)」とは呼ばないのです。

初心者向けの本で、いきなりここおさえちゃう。粉出す人とか、ヨギじゃないからね。

<26ページ ヨーガは高次元の宗教である より>
(ヨーガは体操にすぎない、として宗教のなかに数えたくないとする考え方と、逆にヨーガを宗教とするのはヨーガの品位を落とすと考える反宗教的な考えの人もいる、としたあとで)
各人が宗教を持つならば、情緒の安定、明るく平和な性格、力強い充実感、不動の信念、生き甲斐の感情といった結果が、かならず現れてくるはずです。こうした意味での宗教は、個人個人に特有なものですから、人間の数だけあるといえます。

いまは「宗教」という単語の持つ印象にカルト色を想起する人があまりにも多すぎるけれど、うちこは、ヨーガを「宗教とかじゃないです」と日本の講師の方に言われると「ああこの人にとっては、宗教じゃない、と言わないといけないものなんだぁ」と思います。

<32ページ 現代医学とヨーガの治病 より>
 医学が、このように進歩し、世界中でぼう大な数の研究がなされているのに、どうして病人の数は、年々増える一方なのでしょうか? これは、だれしもが抱かなければならない疑問なのです。
 ところが不思議なことに、この疑問を、特に問題にする人は意外と少ないようです。多くの人は、現代の正統的な医療を信頼しています。こういう現実をみると、現代人というものの、知性の低さを想像せずにはおられません。
 こうした常識的な誤りの元は、いったいどこにあるかといいますと、医学と医術との区別に気づかないというところにあるのです。医学が、これほどまでに発達しているのですから、医術も、すばらしく発達しているにちがいないと考えてしまうのです。

ほんと、よく「いまは医学が発展しているから」という人がいるけれど、それは自分で感知する能力が鈍った分を、医学が補ってくれているだけなのにな。と思います。あとね、医学がなければ、思い悩んでもしょうがない病気に気づかずにいられたりすることも多いと思う。
「こういう病気がある」というのは、マスコミによるインプットで、情報としての医学単語が増えている。特にココロ系。知っておくとお得な情報になっている。

<84ページ 体位体操 より>
 人間のカラダは、地上で最高の精妙な有機体であり、肉体と精神とが複雑微妙にからみ合い、浸透し合った全一的、全機的な存在なのです。部分と全体が結びついているのです。カラダの一部分につけた傷害が、全身に肉体的、精神的な影響を及ぼすことは誰でも知ってることでしょう。
 それと同じように、全身的なひずみが、部分的な疾患として現れることを知らなければなりません。胃がわるいからといって、胃だけを治療しようとするのは馬鹿げたことなのです。いくら患部だけをいじくってみても、効果はありません。
 ですからヨーガ体操を、対治療的に使おうとするのは邪道であるということです。ヨーガ体操の真の効果は、いくつかの体操の組み合わせによって初めて発揮されるのです。

ヨーガは、「全体最適」の究極メソッドだと思うよ。みんなに同じ材料が用意されている。慣れてくると、組み合わせる作業も「カクテル作り」みたいで楽しいよ。

<101ページ 魚の体位 より>
 この体操を行なうと、まれに、はきけやめまいを感じる人がいます。それは中耳の傷害によるもので、そのような場合は、この体操を中止したほうがよいです。

中耳が関係するのかぁ。知らなかったのでメモメモ。

<108ページ すきの体位 より>
 バイタリティーを高めます。

なんなんでしょう、と思うくらい高まる。なんだろう。
と思っていたら、「肩で立つ体位」に詳細が。以下ね。

<111ページ 肩で立つ体位 より>
 カラダがさかさまになるので、腹のなかの臓器が、お互いのあいだの圧迫から解放される結果、消化がよくなり、カラダのなかの毒素が除かれ、新しいエネルギーとバイタリティーがもたらされます。

臓器が圧迫から解放されるからという理由に「ぬぉぉぉぉ」といまさらながら、感動。本当にそんな感じだ。

<138ページ 孔雀の体位 より>
(1)ヒジで肋骨を圧迫しないこと。
(2)この体位は女性には不適当とされている。
(3)体重を上腕にかけ始める前にイキを吐いておく仕方と吸っておく仕方の両様がある。

わたしはたまに道場のクラスでサンプル(お手本)をやるのだけど、女性には不適当なのか。

<147ページ 完全弛緩の体位 より>
 初めのうちは、この(呼吸)観察に三〜四分をかけます。そして最後には一○分まで延長します。そのあいだ、ココロは注意の焦点からそれてゆこうとしますが、強いて止めようとはしないで、いったん遊ばせておいてから、焦点である呼吸のほうへ引きもどします。

マネジメントの極意のようであり、恋の秘訣のようであり。

<157ページ ムドラー体操 より>
普通人にあっては、その根元であるチャクラが三つの結節で閉塞されているうえに、チャクラとチャクラをつなぐ気道であるスシュムナーが、いわばへどろでつまっているので、どんな人間にも神にひとしい偉大な素質が潜在しているにもかかわらず、それが発現されないでいるというのです。
 そこで、この気道につまったへどろをさらい流し、チャクラをふさいでいる結節を突き破ることが必要で、それが成功すれば、人間本来もっているすばらしい才能が発現し、最終的には神人合一の体験をさえ得ることができるというわけです。

「へどろ」って言われるとわっかりやっすいわぁ(笑)。なんで先頭に「へ」ってつけるだけでこんなにわかりやすいやら。この感じ。こういう書き方をすると、「愛さずにはいられないチャクラ解説」になる。

<170ページ 完全呼吸法 より>
 完全呼吸法は、腹式でも胸式でもありません。西洋式の深呼吸でもなければ、中国式の腹式呼吸丹田呼吸ともちがいます。強いていえば、肺底中心の呼吸ということがいえます。

すげーーー。と思った表現。「肺底中心の呼吸」

<198ページ すわり方(調身法) より>
 口のなかでは、舌の表面をしっかりと上アゴに押しつけておきます(舌のバンダという)。これは舌が無意識に動くのを止めるためです。
舌が動けばココロも動いてしまいます。

そう。舌ってほんと、意識し出しちゃうと動く。巻くか押すかしておかないと、おさまらない。

<222ページ 瞑想中の心理操作法(調心法) 直観と智恵 より>
 科学は思考作用の産物ですから、すべて知識であって智恵ではありません。科学は、それ自身では人間生活にとって有益でも有害でもありません。それが人間生活に関係するためには、技術を開発しなければなりませんが、科学理論から技術への転化は、直観と智恵を触媒として行われるのです。
 思考と直観とを区別すると、思考は分析的、抽象的、理論的であるのに対して、直観は、総合的、具体的、実践的であるといえます。
 知覚的経験は一種の直観ですが、このほかにもう一つの直観があるのです。それは知的直観と呼ばれるものです。哲学の根源となるものはこの知覚的直観です。
 知覚直観は、経験的直観ともちがい、概念的思考ともちがっています。知的直観の内容は、普遍的ですが抽象的ではなく、具体的ではありますが特殊的ではないのです。いわば具体的普遍とでもいうべき性格のものです。
 三昧とか定(じょう)とかいわれる境地は、この知的直観にほかならないのです。この境地に達して初めて哲学から高い智恵が生じ、それが生きる力となるのです。哲学が説く真理はそのままでは生きる力とはなりませんが、知的直観を介して智恵となったときに初めて、「生きた真理」となって、われわれに信念と活力を与えてくれるのです。

「具体的だが特殊的ではない」というところに落とし込む技術(智恵)は、どんな職種にも通用するもので、世の書店で平積みされている「デキる」「効率化」の本は、アイスクリームで言えば「トッピング部分」だけを売っているのであって、土台のアイスクリームを売っていなかったりします。本では得られない。

初心者におすすめですが、西洋のヨガイメージが好きな人には、亀仙人のすごさがわからないかもしれません。