うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

タオ自然学 F・カプラ 著(「共振するタオ」)

先日感想を書いた本の、今日は第三部「共振するタオ」のなかから、いくつかメモしておきたいと思った箇所を紹介します。
写真は、巻末にある著者さん。この本を貸してくれたヨガ仲間と道場で会ったとき「ハンサムだから、出たくなっちゃったのかな」「たしかにイケメンですね」「ふつうのサイズじゃないよね。ふつう、証明写真くらいの大きさなのに」「あれは、片面一面くらいの……(笑)」というわけで、イケメンなわけです。ちょっと、キース・リチャーズ風で。

今日紹介する第三部は、インドの哲学者と同じくらい、物理学者の名前も出てくるのですが、言ってること一緒なんですねぇ。インド以外でも、日本から鈴木大拙さん、メキシコからドン・ファンさんなど、この日記の本の紹介を読んでいられる方にはお馴染みの顔ぶれも。
前回の日記にも書きましたが、わたしはいわゆる「お勉強」がダメでしたので、ブーツストラップっていわれたら「おしゃれアイテム」と思ってしまいますし、ライプニッツって言われても「グリコ発の新しいなにか」かと思ってしまうレベルなので、あまり知的な感想は書けません。

とおことわりしつつ、ご紹介へ。けっこう長いですが、ほんの、ほんの一部。

<155ページ 万物の合一性 観測者から関与者へ より>
量子論は、われわれに万物を物体の集まりとしてではなく、統合されたさまざまな部分が織りなす複合的な織物(ウェブ)としてみることを余儀なくするのである。そしてこれこそが東洋の神秘思想家の体験してきた世界であり、事実、原子物理学者の言葉とほとんど同じ言葉で自らの体験を表現する神秘思想家がいるのだ。例をふたつほどあげてみよう。

 物質的な対象は、われわれがいま見ているのとは異なったものとなる。それは世界をひとつの背景としていたり、それにとり囲まれて独立しているものではなく、われわれの目にうつるすべてを統合する統一体の不可分な部分であり、それらの一体性をそれとなくほのめかすものでさえある。
  (オーロビンド)


 物は相互に依存することによってその存在と性質を獲得するのであって、物それ自体に意味はない。
  (ナーガルジュナ

(中略)

タントラ仏教徒ラマ・ゴヴィンダのつぎの言葉は、原子物理学の世界観を要約している。

 仏教者は、そのダイナミックな力のなかに自分自身をおけるような、孤立して存在する外界を信じてはいない。
 外界も、自己の精神世界も、おなじ織物の両面にすぎない。力と事象、意識の形態とその対象、これらすべてが糸として織り込まれ、不可分で限りのないネットワークをつくり、たがいに条件づけされあう関係を構成する。
  (ラマ・ゴヴィンダ)

マンダラの世界。マンダラは、ただのマッピングじゃないからねぇ。


<164ページ 対立世界の超越 より>
 対立はすべて両極的で、明暗、勝ち負け、善悪などは同一現象の異なった側面にすぎないという考え方は、東洋の生き方の根本原理のひとつとなっている。対立するものはすべてが相互に依存しているから、その拮抗がどちらか一方の全面的勝利に終わることはけっしてない。つねにふたつの側面の相互作用のあらわれなのだ。このため、東洋で徳のある人物とは、善を究めて悪をなくすといった不可能なことを企てる人間ではなく、むしろ善と悪のダイナミックな調和を維持できる人間をさしている。
 東洋の神秘思想のなかで「対立の統合」を体験するにはこのダイナミックな調和の概念が必要不可欠である。それはけっして静的なものではなく、つねに二極間の動的な相互作用なのだ。中国の賢者は「陰」と「陽」という原始的な極を使ってこの点を強調してきた。陰と陽の背後にある統合をタオと呼び、それを陰、陽間に相互作用をひきおこすひとつの過程とみなした。『易経』にいわく、『時に暗を、時に明を出現させているもの、それがタオである。』

「東洋で徳のある人物」が理解される東洋ではなくなっている気がします、日本。わたしの周りで目立って起こっているだけならよいのだけど。


<171ページ同上 粒子と波動性 より>
粒子は確率である。粒子はさまざまな場所に「存在する傾向」があり、「存在」と「非存在」の間で不思議な物理的世界観を現出する。(中略)変わるのは確率であり、「存在する傾向」なのだ。R・オッペンハイマーは言う。

 たとえば、電子はおなじ位置にとどまるかと問うなら、「否」と答えねばなるまい。
 では電子の位置は時間とともに変わるのかと問うなら、「否」である。電子は静止しているかと問うなら、「否」と言わねばなるまい。では電子は運動しているかと問うなら、これも「否」である。
  (J・R・オッペンハイマー


 原子物理学の世界は、東洋の神秘思想の世界同様、対立概念という狭い枠組を超越している。オッペンハイマーの先の言葉は、『ウパニシャッド』の言葉そのままである。

  それは動き、しかも動かない。
  それは遠く、また近い。
  それはすべての中にあり、
  またその外にある。
    (『ウパニシャッド』)

もーあなたたち、つべこべ言ってないで付き合っちゃいなさいよぉ。と言いたくなるような感じですが、「ウパニシャッド」は人名ではないのでした。


<211ページ ダイナミズムの自然学 より>
 東洋神秘思想がめざすところは、世の中の現象がすべて同じ究極のリアリティをあらわしているのを体験することである。万物の根源にあって、それらを統合しているこの究極のリアリティを、ヒンドゥー教ではブラフマン、仏教ではダルマカーヤ、またはタタータ、道教ではタオとよぶ。(中略)宇宙は現象的にはダイナミックであることが本質であり、このダイナミズムを理解することが、東洋の神秘思想の基本である。大仏教の華厳宗について鈴木大拙はつぎのように述べている。

  華厳宗の中心となる考え方は、天地万物を動的にとらえることである。万物はつねに前進し、永久に動き続けようとする。それが生命である。
  (鈴木大拙

 動き、流れ、変化を強調することは、単に東洋の神秘思想の特徴というより、神秘主義的世界観の本質的側面とでもいうべきであろう。古代ギリシア時代、ヘラクレイトスは「万物は流転する」と説き、世の中を「永遠に生きる火」にたとえた。またメキシコのヤキ・インディアンの神秘家ドン・ファンは「移ろう世界」を語り、「識者となるには、軽妙でなければならない」と説いた。

わたしはドン・ファンさんの言葉が大好きです。いま読み直しても、「自分自身へのけちで不毛な配慮の虜」とか、「反復のような事柄は経験はできても説明はできないものだ」とか。ちょっと、マイクパフォーマンスっぽいところがツボ。



<220ページ 同上 爆発(ビッグバン)宇宙論と振動宇宙論 より>
 莫大な時間と空間にわたって、膨張、伸縮を繰り返す宇宙。じつはこの宇宙像と似たものがインド哲学にもみられるのだ。ヒンドゥー教では、宇宙は有機体的に、リズミカルに脈動していると考え、現代の科学的モデルにきわめて近い進化的宇宙論を展開した。その宇宙論は、ブラフマン自身が世界に姿を変えるヒンドゥー教の神話リーラ(神の劇)にもとづいている。リーラはサイクルがはてしいなくくり返されるリズミカルな劇で、一なる神が多くのものになり、多くのものがまた一なる神に戻るのをあらわしている。『バガヴァッド・ギータ』のなかで、神クリシュナは、この律動的な創造劇んついてつぎのように語る。

 闇の終わりに
 自然はわたしのもとに帰る
 やがて始まりの時熟して
 わたしはふたたびこれを産みだす

 創造者たるわたしは
 自然の創造を永遠にくり返す
 だがわたしは創造物に執着せず
 ただながめるのみ

 そのつくられたものがまた
 生けるものも死せるものも産み
 かくして万物は流転する
  (『バガヴァッド・ギータ』)

(中略)この古代の神話のスケールには、まったく驚愕するばかりだが、人類がふたたびこれに匹敵する宇宙像を描くのに、二千年という歳月を要したのである。

ヘラクレイトスさんの「万物は流転する」は、こんだけ教科書を読まなかったわたしでも知っている。すごいインパクトだったのね。



<238ページ 同上 空と形象 生成する空 より>
 新儒教で発展した「気」の概念は、現代物理学の場の量子概念ときわめてよく似ている。「気」も、場の量子同様、空間にあまねく存在し、凝縮して固体にもなり、希薄で知覚できない物質であると考えられている。張横渠は言っている。

 気が集まると、はっきり見えるようになり、形があらわれる。
 散ってしまうと、見えなくなり、形もなくなる。
 集まっている時、それをかりそめの相(すがた)だと言うしかないではないか?
 また、散っている時、それは存在しないと言いきってよいものだろうか?
 (張横渠)

(中略)つぎのW・サーリングによる現代物理学の「場」の概念の説明と。J・ニーダムの中国物質観の説明とが、両者の類似性を如実に示している。

 現代物理学は、われわれの物質観をまったくべつなものにしてしまった。われわれの目を物質世界(すなわち粒子)からひきはなし、「場」という根源的な実在へと向かわせたのである。物質とは場の完全な状態がそこで攪乱されていることにほかならない。偶然おこることであり、ちょっとした「きず」のようなものだ。だから素粒子間の力を説明する単純な法則などあり得ない。……根源的な場のなかに、秩序と対称性を探し求めることが必要なのだ。
 (W・サーリング)


 古代ならびに中世の中国人がとらえていた物質世界は、完全に連続的だった。物質中に凝縮した気は粒子的なものではない。個々の物体が、陰陽ふたつの基本的な力のリズミカルな変動と連動した波とか波動のようなかたちで、他の物体と作用しあうのである。だから個々の物体には固有のリズムがあり、それが統合されて、全般にわたる調和の世界をつくっている。
 (J・ニーダム)


 物質は分割できない原始で構成されているのか、それとも根源的な連続体からなりたっているのか。この古くからの問題に対し、現代物理学は「場の量子」という概念を使うことで、その答えを探しあてた。
(中略)

東洋の神秘思想でも、「空(くう)」と、空が生みだす「形」のダイナミックな統合を強調している。ラマ・ゴヴィンダは言う。

 形と空の関係を、たがいに二律背反的な対立状態としてとらえるべきではない。それは同じリアリティのふたつの側面にほかならない。このふたつは共存し、絶えず協力しあっているのだ。
 (ラマ・ゴヴィンダ)

 このように、対立概念を、ひとつの世界に融合する考え方は、仏教の教典では「色即是空、空即是色」という有名な言葉で表現されている。(「色」とは、物質的存在をさす。)

数々の調和論。どの言葉もそれぞれに個性があって、引き込まれます。「場の量子」という言葉は、この本を読んで、なるほどねぇと思った大きな要素。



<317ページ 無碍の世界 織物(ウェブ)宇宙とブーツストラップ より>
 人間の心を言葉と説明から解き放つことが、東洋神秘思想のおもな目的のひとつである。仏教もタオイズムも、「言葉のネットワーク」あるいは「概念の網(ネット)」を語り、相互に関係しあった織物を知の領域にまで拡大する。ものごとを説明しようとするかぎり、われわれはカルマに縛られ、概念のネットワークにとらえられているのだ。言葉と説明を超えるとは、カルマの束縛を逃れ、解脱にいたることである。

般若心経の、「しんむーけーげーむーけーげーこー(心無圭礙 無圭礙故)」のところですね。



<323ページ 無碍の世界 ライプニッツ「窓」 より>
 ハドロン・ブーツストラップでは、すべての粒子が自己調和的な形でダイナミックにたがいを構成しあっている。その意味では、たがいを「含み」あっていると言えるのである。大乗仏教ではそれにきわめて近い概念が宇宙に適用されている。この相互に浸透する事象のネットワークは、『華厳経』の中でインドラ(帝釈天)の網、帝釈殿にかかっている壮大な珠玉のネットワークという比喩を使って語られている。

先日見た「天空の城ラピュタ」のムスカのセリフにも、寅さんでおなじみの帝釈天さんが出てきていましたが、どうしても「帝釈天」さんの話になると、「女陰まみれ」の話が頭に浮かんでしまい、もうこのあたりのことは真面目に読めなくなっているおバカさんです。



<325ページ 無碍の世界 ライプニッツ「窓」 より>
『単子論(モナドジー)』の中で、かれはつぎのように語る。

 物質の個々の部分を植物の茂った庭園、また、魚の豊富な池と考えることができる。
 だが、一本の枝、一尾の魚、さらにその体液のひとしずくにも、そのような庭や池が存在するのである。
 (G・W・ライプニッツ

 この一説が『華厳経』をほうふつとさせるのは、ライプニッツに仏教の影響があったからかもしれない。ジョセフ・ニーダムは、イエズス会の宣教師から手に入れた翻訳をとおしてライプニッツが中国の思想と文化に詳しかったところから、その哲学は、朱子学に啓発されたものではないかと論じている。朱子学のルーツのひとつは大乗仏教、なかでもとくに華厳宗にある。

この本を読んで、ライプニッツさんという人にとても興味を持ったのですが、空海さん並に勉強しまくってますね。すごすぎ。でも、ちゃんと勉強をしてこなかったうちこは、このリンク先のWikipediaの写真を出されたら「見たことあるー。音楽室にいたいた」とか元気に答えてしまいそうです。
あれだけ勉強して、この髪型でいた点は、空海さんよりもすごいですね。




この本は新たな世界をたくさん見せてくれたのですが、いまひとつ感想にその感謝の度合いが乗せきれていない気がします。何度も自分のこのログを読み返すことになりそう。

タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる
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