うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ブッダの方舟(前半) 中沢新一 × 夢枕獏 × 宮崎信也

ブッダの方舟
古本屋で見つけて読んだら爆裂おもしろかった。2回に分けて紹介します。中沢氏、夢枕氏は超有名なので紹介を割愛するとして、宮崎信也氏は徳島市にある高野山真言宗般若院の三代目住職さん。この三氏はかけあわせによって話のテイストが変わってくるのですが、「中沢新一 × 夢枕獏」だとものすごく感覚ベースのノリノリな感じ。「中沢新一 × 宮崎信也」となると、知識ベースでの重ね合いなる。「中沢新一 × 夢枕獏 × 宮崎信也」になっても、とにかく夢枕さんの投球がぜんぜん知ったかぶっていなくて、すごく好感が持てる。ナイス・ファシリテート。
この本はインドとスリランカを見てきた後で読んだのもよかった。「本場だし」と思い込みがちな国の僧侶のしょうもないところをはっきり断言されていて(後半の紹介のときに書きます)、すっきりした。

初回は第三章までのなかから、いくつか紹介します。

<28ページ 「仏教はサイコテクノロジーである」より>
中沢:チベット密教なんかになると、まず宇宙だし、それから人間の意識の構造みたいなところへいって、ほんとうに素粒子論に近いことをやるんです。素粒子論で、いますごく複雑な理論ができているでしょう。クォーク理論とか。そういうものとすごく近いところを実際に体験するためにヨーガをするようになっていて、ほとんど宇宙論とか、生命の根源論に近くなっていく。チベット密教の修行をグレードアップしていって、最後のほうに近くなってくると、何かを信じるとか、そんなものは全部嘘だと言い出すんです。いままでは仏教を信じなさいとか、ラマは先生だから、ラマのことは絶対的に帰依して信じていなければいけない。なぜ信じなければいけないかというと、疑いという意識の働きが混じると先に進めなくなってしまうところがあるからです。そういうのを全部除去しておくために、とにかく徹底的に否定をしないで、疑いをもたないで信じろ、というふうにして進んできて、最後のほうへいくと、信じるということも虚構なんだから駄目だ、ということになる。


夢枕:ウパニシャッドあたりの難解なのを読むと、なんとなくそう思います。


中沢:難解なことが多いんだけれども、基本的にいうと、あれもビリーヴの宗教じゃないんですよ。


夢枕:理論体系というか、もしくは超能力と言っちゃうと、ちょっと違うかもしれませんが、人間のあるレベルを上げるための技術体系みたいなもの、なんかそういうシステムのような気がします。

うちこは素粒子論&ヨーガとか、科学とヨーガの組み合わせで「そういうものとすごく近いところにありそう〜」的な話題を、ヨガに詳しいうちこさんあてに投げかけてられると、「ほよよ? わかんにゃい」となる。ヨガ&マラソンのようには語れないから。

<30ページ 「仏教はサイコテクノロジーである」より>
中沢:キリスト教の場合の「ビリーヴ」というのは、ものすごくいろいろなものを排除してビリーヴするわけでしょう。異教徒も全部排除するし。だから、最後の最後までいっても大肯定に逆転しないんですね。


夢枕:結局、最後には上にいるどなたかが救ってくれるわけですから。


中沢:そう。だから、救ってもらったところで、また借金が増えてくるわけです(笑)。


夢枕:ただ、救われた後は永遠に楽園で暮らすということになっているらしいんですけれども、あれもなんか納得できない。


中沢:大高利貸しですよ、キリスト教の神様というのは。

なんか不動産屋に見えてきた(笑)。

<34ページ 「真言立川流について」より>
中沢:立川流って、いますごく誤解されていて、淫祀邪教というと、必ず登場してくるでしょう。


夢枕:そう、そう。こっちも小説ではそういうふうに使ってますけれどね。


中沢:でも、鎌倉時代密教というのはほとんど立川流の影響を受けてますよ。金沢文庫のある金沢称名寺というお寺が関東の真言立川流の中心になっているんです。東北、北陸の真言系の仏教も立川流っぽかったし。その当時は異端なんかじゃなくて、あれが普通なんです。関東の宗教というのは、後に富士講などが出てくるように、もともと縄文的な「野生の思考」が基本になっています。そこでは人間の体の生理学とか胎生学 ── 受精してから人間が胎内でどんなふうにできてくるとか、そういう理論が発達していたんです。医学とも関係している。陰陽道も、その原始科学風の魅力を発揮していたし。そういうものと結合して関東周辺でできていた。いま残ってる経典を読んでも、いったいどこが淫祀邪教なんだと僕なんか思っちゃうんです。ま、もちろん、それは淫祀邪教ですよ(笑)、いろんなことをするわけだから。だけど、日本の一時期の仏教の流行はあれだったと言ってもいい。高野山だってそうだし。

いま普通にある文化だって、いつか「邪」扱いされるかもしれないんだよね。現代同士で「あれは邪道だ」とかいうのは、すごく小さなスケールに見える。(参考:称名寺は過去に紹介したことがあります

<69ページ 「輪廻のテクノロジー」より>
夢枕:それは人間に限らないんですか。


中沢:犬であることもあるし、植物であることもある。それで今度は胎内の生成が始まるわけです。お母さんの胎内で身体がだんだんできてくるプロセスが始まる。それで、行者さんは修行、「ポワ」という修行をして、バイブレーションとしての意識の光の状態を体験しようとします。生きているうちにそこを見ておく、ということです。そうすると、死んでもいないし、生きているものでもない、そういう状態に入る。肉体的には確かに生きているけれども、その状態を知っているということは死の状態を知っているということでもあるわけですね。

「そこを見ておく」のはいいんだけれども、「そこを見た」と言っちゃうはどうかなーって、うちこはよく思います。もう「バイブレーションとしての意識の光」とか「チャクラ」を大好物とする人がわんさといるんだもの、この他責社会。


▼ここから、宮崎氏も入る第二章です。

<103ページ 「仏教の宇宙論」より>
宮崎:日本語にビリーヴというのがないように、ありがたいというのがないんですね、英語には。四国遍路映画の英訳を手伝ったんですが、「ありがたい」と「水に流す」というのにものすごく困りましたね。


中沢:それはむずかしいよね。


宮崎:「水に流す」は一応「フォゲット」だろうと思ったけれども、でも違うんですね。忘れるというのと意味が違う。「おいといて」ということでしょう。


中沢:それはひとまず、見てみたいな。


宮崎:「ありがたい」っというのは、結局同化の問題でしょう。ありがたいというのは、仏と同化するということですね。


中沢:マーベラス


宮崎:「ありがたい」というのは訳しようがないんです。「マーベラス」って、奇跡的な時に言うでしょ。「ありがたい」は、いつも言うもの。


夢枕:「もったいない」と言うのもないんじゃないですか。


中沢:やっぱり「マーベラス」とか、「トゥ・マッチ」。もうたくさん(笑)。


夢枕:「もうたくさん」と言ったら、「もう要らない」じゃないですか。


宮崎:自然智というのは、森林に入っていって「ありがたい」と、森林に同化しちゃう。魂がかえっちゃう。砂漠じゃ無理だものね ──。

このなげやりな「マーベラス」がおかしい(笑)。

<106ページ 「密教の伝播と消長」より>
宮崎:おもしろい話をしましょうか。みんながよく知らない話。実はタイをはじめとする東南アジア諸国密教だった時期があったんです。


中沢:インドネシアもそうだものね。


宮崎:全部密教だったんです。あのスリランカでさえもアバヤギリ山を中心として密教が栄えた。ところが十二世紀になって王様が、密教はふしだらだからというので禁止しちゃったの。あのスリランカ密教がはやっちゃったんですよ。それで王様がいけないといって禁止した。


中沢:最初に密教の教えが落ちたのは、スリランカのマラヤという山のてっぺんだからね。


宮崎:それでタイから小乗をもっていくわけです。反対にタイのほうに密教がはやっちゃうと、また王様が密教はふしだらだから密教は駄目だといってスリランカからパーリ経典を入れる。


中沢:密教がボロブドールもつくったし。あの一帯は全部密教なの。


夢枕:いつ頃までなんですか、密教がタイにあったというのは。


中沢:中世の頃かな。権力者にとっては密教の持つパワーというのは危険なのかな。とにかく、権力の本質は禁止だからね。

こう、なんとなく、「ふーん」で終わらせたくなっちゃう雰囲気になっちゃう。そんななか、夢枕さんのあいづちが絶妙。


<130ページ ふたたび「精神の輪廻」について>
夢枕:ちょっと話が飛びますけれども、何かわからないことがあると訊きますね。それで問うと答が返ってくる。その時に、正しい答がほしい時は正しく問わないと、正しい答って、こないじゃないですか。


中沢:そうそう。答は問いの中に入っているんだよね。


夢枕:それで問いの中に大体正解はあるわけですね。ほとんど。


中沢:あるの。問い方が正しければ、もう答は出ているのね。


夢枕:だから、どう問えばいいのかなということがわかった時は、大体もうわかっているみたいですね。


中沢:そうそう。だからどこのベースにあわせて問いを発するかということですね。だから、どんなに問いを発しても正解に至らないというんは無限にあるわけね。


夢枕:その場合は問い方がいけない。


中沢:問いのレベルが問題なんです。

「どう問えばいいのかなということがわかった時は、大体もうわかっている」というのは本当にそうだなぁと思うことが多い。主語をどう置いているかだけが問題、といったような。

<150ページ 一所不住 ── 仏教と空間移動 より>
宮崎:インドというのは永遠で、平原だから、時間は悠久で、空間の比重のほうが大きいんです。移動というのがあるから。だから遊牧民族というのは空間にあたる。それで、イスラムでもインドでも空間を何重にも埋めつくして、とても密な、くらくらするような意識の空間をつくります。日本人てのは、空間に対する恐怖心なんてないんですよね。農耕民族や森林に住む人たちというのは時間なんです。


夢枕:山の中には、はっきり時間というのはありますね。きっと平原より多い量の ── というより、だいぶ質の違う時間があるのだと思います。


宮崎:山に入ったら時間が濃縮される。山を登ると平地に住んでいる人々は、平地でいる時よりも濃厚な時間を過ごす。


夢枕:人間の中には上昇ということに対して、何か特別な感覚というのがありますね。下がるということじゃなくて、横に行くということでもなくて、上に行くというのには。


中沢:空気が希薄になっていく。物質的な地上の生活を離れ、より精神的な天の高みに近づいていく感覚。

ここは、ネットの使い方を見ていても面白いなぁと思うんです。インド人のFacebookの節操のなさったら、ハンパないですからね。とにかく、世界人脈のホワイトスペースを埋めろ〜、って感じでどんどん登録! 名前を知っているインド人の5倍は知らないインド人だ。それが、日本の場合はやっぱり違う。繋がる人を「名刺代わり」にしたり、「実はちゃっかり(高みに繋がる人を)選んでる」ところがあると思う。

<182ページ 比叡山と天台の異端 より>
夢枕:天台本学思想は鎌倉新仏教のできる大きな要因だった。


中沢:そうです。鎌倉新仏教の人たちというのはみんな天台本覚門を学んだ人たちなんです。親鸞なんかにいちばんそれが出ているでしょう。悪人正機説というのは天台本覚門以外のなにものでもない。


夢枕:でも、あそこまでいくと、すごい理屈ですね。


中沢:凄まじい。


夢枕:悪人のほうが救済されるという理屈はわかりますが、あそこまでいくとある意味では立川流より大胆というか……。


中沢:顕教である天台の思想というのは結果としてものすごい神秘主義だけど、密教こそが神秘主義でしょう。チベットのゾクチェンパってそうなんですよ。ヨーガは密教神秘主義のやり方をするけれども、哲学的には顕教だから。


宮崎:密教って、哲学的には全部顕教にもとづいているんです。チベット仏教は「顕密相関の教」です。


中沢:そうなの。だから顕密の体制の別なんかないの。ひと続きのもの、シリーズなんだ。


宮崎:仏教最高の思想瑜伽唯識だってヨーガは密教だし、唯識顕教だから。結局仏教を本格的にやっていくためには、ヨーガによって得られた心の姿をもとに、顕教で自分のきっちりした理論を構築して、地図をつくって、それでまたサイコダイビングしていかなくちゃいけないから。そのくり返し。サイコダイビングするということは、もう完全に密教の世界に入っていくこと。


夢枕:密教ですよね。


宮崎:で、仏教と神秘主義との関係というのはとてもデリケートな問題で、顕教というか、瑜伽唯識なんかは、決してヒエラルキーを失ってはいない。だから密教神秘主義的だと言っても、決して、天台本覚門のような一元的なものへとは流れていかない。顕と密とが互いをバランスしている。顕と密、どちらか一方ということになると極端に走ってしまう。天台宗はその点、天台法華、密教、禅、円頓戒の四宗一致。


中沢:だから最澄の意図した日本の新天台というのはものすごく高いよね、思想的に。

「ヨーガは密教神秘主義のやり方をするけれども、哲学的には顕教」ってのはまったくもってそうだなぁと思う。「手法」は密教なんだけど、ちゃっかりスートラあるし。「変化しながら伝播した天台」について最近思うことが多いのだけど、やっぱり密教の柱として太いし、層も厚い。あのとき「お経貸して」って言わなきゃ最澄さんももっと……、と思ったりする(笑)。

<193ページ 川と彼岸の思想 より>
夢枕:彼岸というのは、原語から聞かないとまずいのかな。原語から直訳すると、向う岸というような意味でいいんですか。


中沢:チベット語だと、「ニャゲンデ・デーワ」といって、苦しみから脱出したという意味なんです。


夢枕:じゃあ、彼岸というのはだいぶ意訳された言葉なんですか。


中沢:チベット語の訳がわりと意訳されている。


宮崎:サンスクリットはパラ。単に「他の、別の」という意味。水平構造じゃなくて、垂直構造でしょうね。基本的に、「彼岸」というのは最初期の経典には出ていなくて、渡るということのほうに意味があるんです。


中沢:船のほうですね。


宮崎:煩悩のことを暴流(ぼる)と言うんですが、その暴力的な流れの、こっちにいるというよりは、いま浸っているというような発想でしょうね。渡るというのは、こういうふうなものを流されないで泳ぎ渡るということで、暴流を渡るというのが基本的な意味です。暴流というのは煩悩のことをいうんです。貪・瞋・痴の三毒のことをいう。
 別に向うに対象があるのじゃなくて、人生の中において、煩悩の川を渡り切ったものという、そういうことだと思います。こっち岸があって、向う岸に行かれるという、此岸と彼岸といえば、そうでしょうね。ただ、間違えちゃいけないのは、此岸の世界には生・死ともに含まれるわけで、彼岸は向こう側という浄土的なものじゃなくて、迷いをつきぬけた、真実の姿を知るということ。だから、仏陀のことを「如来」というのは、真如の世界から来たれる者、という意味。これを空じて、相対化しちゃうのが大乗。


中沢:僕がチベットで勉強した経典には、向うもこっちもない、とちゃんと書いてある。だから解脱もないし、ニャゲンもなければ、ニャゲン・デーワもない。


夢枕:解脱がないというのはわかりやすいですね。


中沢:解脱もないし、解脱がないこともない。


夢枕:ないこともない ── なお、わかりやすいですね。


宮崎:それが日本人に伝わって彼岸になっちゃうと、あの世になっちゃうわけですね。黄泉の国。


中沢:そうすると、向うから降りてきたりする。

ここはすごく面白かった。「あっちに有るなら、こっちに無いね」という、1を取り合う考え方が、彼岸を黄泉の国にしてしまう。先日紹介した「西遊記」の感想に「接引仏祖登場の場面で【三蔵が俗世の肉体を捨てる】描写を子供向けに書くのは、ほんと難しい」と書いた難しさに通じる。


長くなっちゃいましたが、これはまだまだ前半のほんの一部です。後半はさらに面白くなっていきますが、この本は絶版重版未定だそうです。今なら中古でまだ買えますので、興味を持った人は買って読んでみることをおすすめします。

ブッダの方舟 (河出文庫)
中沢 新一 夢枕 獏 宮崎 信也
河出書房新社
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