うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

禅宗問答「祖師西来意」(東洋的な見方 / 鈴木大拙 より)

鈴木大拙氏の本の内容とヨガと関連づけて、こんなことを感じています。
ヨガというのは、人によって向き合い方や取り組み方がいろいろあると思うのですが、ともあれやることは修練なので、「いいからやれ」なところがある。ヨガから禅へ向かう日本人の気持ちの流れに納得しちゃうんです。
今日は過去に前半後半に分けて紹介した「東洋的な見方」のなかからとりわけ印象に残った部分をがっつり紹介します。
達磨さんについての問答なのですが、これがどうにもおもしろい。
細切れにコメントをいれつつ、だらだらいきます。

<187ページ 東洋思想の不二性 より>
 シナ禅 ── 禅は実際漢民族の間で発生し、成熟したもので、特にそれがシナなどと附加しなくても、よいのだが、とにかく、シナ禅 ── として、東洋的なものを横謚させているようになったのは、馬祖道一から創まるといってよい。その人が打ったり蹴ったり大喝したりしたので、禅坊主といえば、そのようなことをやるもの、あるいは、やるにきまったものとさえ考えられるに至った。この馬祖がまた、なんでもない日常の言葉で禅機を発揮させている。
「平常心是道」などといったのである。

このあとの話がおもしろいのですが、それ以前にこの前提を読みつつ、その後のことを楽しみにしてください。

  • 「馬祖道一」という人が禅坊主スタイルをつくった人らしい。トレンドメイカー。
  • 禅機という言葉も印象に残る。
  • 日常語に換えることが「教え」で、真理とこの組み合わせばっかりのなかを世界中でグルとその弟子たちがグルグルしている。
  • この話には、人生にはユーモアが必要だ、という雰囲気がある。


ここから、そのエピソードとして有名な「祖師西来意」です。

 僧あり、尋ねて曰はく
 「四句を離れ、百非を絶して、請う、師よ、わがために、祖師西来の意を直指してくださいませんか。」
 (大拙)これには多少の注釈がいる。四句とか、百非とかいうのは、インド流の考えだ、漢人はこれをインドから習得した。

ここから先を読みすすめやすいように補記すると
「祖師西来の意」というのは、

  • 祖師=達磨さん。インド人のボーディダルマ
  • 西来=その人がインドからシナに法を伝えに来た

なので、先の「四句を〜」の一文は「なんでインド人の達磨さんはわざわざインドからやって来たの?」ということ。
「わざわざ」ということが日常語になっている時点で、日本人はみんな禅がDNA的に沁みついているのではないかと、そんなふうに思うのです。


以下は大拙氏の分解解説です。引用の内容を文体はなるべくそのまま、書き方を整形整理します。

■四句
四句というのは、何か一つの話頭(イシュ)があると、それに対して四通りのいいまわしが出来る。
以下の四通りのいい方を、普通に「四句」という。

  • それが「有」る
  • それが「無」い
  • 「有」でもない、「無」でもない
  • 「有」でもあり、「同時に「無」でもある

■百非
これは『楞伽経』に八百だったが、もっと余計だったかの「非」(否)定句が並べてある。何でもかでも、何かいい始めると、みなそれを非(否)定するのである。何かが「是」といわれると、それに対して「非」という。百や二百の非(否)定ではない。無限の量に及ぶのである。「これが」といわれるところに、必ずこれに伴って出てくる否定があるから、自ら無量無辺の「非」の句があるわけである。

ということがあるそうで、この質問の背景を理解して、続きの解説を読むとおもしろくなります。つづけます。

(続き)
「東洋式」考え方ではこんなことはいわぬ。が、この坊さんは仏教的素養があったので、四句を離れ百非を外にした面から見て、問題を提出してきた。
 「祖師西来意」とは、禅宗の始期から出てきた題目である。「一切衆生は本来仏だ」とか、「猫も杓子も初めから成仏している」などという教えが、インドから来て、それがシナ民族の中に伝播してゆくと、達磨さんなど、得得として、天竺から海を渡って、南シナ方面に上陸して来て、梁の武帝を説くなど、いらざるお世話だということになる。頭上に頭を重ねる次第だと見てよい。そこで達磨すなわち禅宗の始祖と考えられる大先生が、西の方インドより東のシナに法を伝えに来るなどというのは、わけのわからぬ話だと考えてよい。そしてその理由を、二分性的に「是」だとか「非」だとかいわず、「直指」してくれませぬかというのが、この坊さんの、馬祖に尋ねた問題である。


(中略)


 問題はむしろ「直指」である。四句や百非の、人間的論理の世界では、何といっても、「非」(否)定せられる。否定の無限連続になっては、落著の湊は見つからぬ。それで「直指」よりほかない。結局は、われわれも、いずれこの坊さんのような問者になるよりほかあるまい。


(中略)


馬祖に西来意を尋ねた坊さんは、この直指の真の消息に触れたかったのだ。しかし馬祖の返事で、それを承当しうるだけの準備が出来ていたかは、別の問題となる。とにかく、問うた。馬祖曰わく、
 「自分は今日は疲れてしまった。智蔵にきいて見てくれ。」
 これが西来意に対する直指か、あるいは言を左右にして返答を避けたのか、あるいは実際草臥れて、何もかも、いやになったのか。問者の坊さんは、文字の面にのみ気を取られて、馬祖から智蔵、智蔵からまた誰というふうに、回って歩いたということである。最後にまた馬祖和尚へ返って、一伍始什を報告した。結局、何もわからぬことになってしまったのだ。もとの木阿弥で維摩の一黙ほどにも、二分性的理智の入れようがなかった、

ここまでが、「頭のいいお坊さんがたらい回しにされた話」の解説なのですが、この先で鈴木大拙氏による「入不二の世界」の理解のしかたの心得が語られます。「禅の理解の心得」というかたちで落とし込んでくれる文章にはこれまであまり出会ったことがなかったので、この部分を紹介しようと思ったわけなのです。
続けます(さっきの引用の続き)

馬祖の結論(?)に曰わく、
 「蔵頭は白く、海頭は黒し。」
と。蔵は智蔵のこと、海は第三番目に尋ねた坊さんの名で、これもなかなかわかっていた禅匠であった。それはそうとして、四句を離れ百非を絶するが、馬祖門下の坊さんの頭の白黒を彼是(かれこれ)するところにある、ということはあるまい。白とか黒とか、頭とか脚とかいうのは、二分性の世界共通の言葉である。それで、言葉の上からのみ見ると、馬祖も二分性以上に出ていないと考えられもしよう。なるほど、入不二法門の境地といっても、二分性の世界においての話であるので、そこに通用する文字言語を流用するかぎり、二分的にそれを了解せんとするのは、やむをえぬ。が、入不二の世界では、文字言語や行動にさえ現成しない以前の消息を伝えるのが、その本務だから、一般の読者もその心得で、「蔵頭白、海頭黒」を受けとらなくてはならぬ。禅録が、大体において、矛盾やら、誇張やら、放言やら、無意義の文字などで満たされているのはこの所以である。二分性の世界にいて、二分性を超絶せんとするときには、この非合理をかえって合理として承認しなくてはならぬ。非合理が合理になるとき、「Aが非Aの故にAだ」ということが、わかってくるのである。

ここまでで、いろいろ思いますよね。わたしもです。
この説明には、さらにまだ先があるんです。これが、大拙節! というところ。

(この節の末尾引用)
他の言葉に換えてみれば、不説の説、不聞の聞である。また説の不説、聞の不聞である。山は山で、山でない。水は水で、水でない。ということになると、何が何かわからぬのである。それゆえ、どうしても、ここに、何か非連続性のものを認めなくてはならぬ。西洋的にすると、これを「神秘論」というのだ。わしらも、そのようなことをいった。西洋人にわかりやすいと思って今でも外国文で書くとき、そうするが、端的にいうと、「神秘」なるものは東洋的考え方にはないのだ。何もかも露堂堂であり浄裸裸である。またはこれを平常底ともいう。寝て、起きて、食べて、死ぬともいうのである。

【「神秘」なるものは東洋的考え方にはない】。きっぱり。


こんなことじゃないかと思うのです。
「人と比べて特別にならなくてもいいです。相対モノサシがいちいち変わることにつきあってもつきあわなくてもいいです。暇ならモノサシっこ、しましょうかね。禅問答。
全能感とか万能感とか神秘とか、そういうのは相対モノサシのバージョンアップ版でそれっぽくやってもいいけど、そもそもそれじゃあ全能・神秘っぽいニーズにはマッチしないでしょうから、禅の出る場面ではないですね。そういうのはほら、神秘っぽい雰囲気が人気のヨガとかでやったらいいんじゃないですか?」


あえてヨガに対して批判的な視点を設定してみたのですが、これ、逆のこともいえます。
禅に対して、「問答なんかしないで黙ってたら?」とね。「めんどくさそー!」って思いますからね、ふつうに(笑)。
それをもってしても、【「神秘」なるものは東洋的考え方にはない】というのは、沁みる。
インドが世界の中で「神秘の国」としてのプロモーションが当たっちゃったのかマーケットイメージができちゃったのかわからないけど、そのへんはエジプトなどと状況は一緒で、要するに他国の求める「神秘というニーズ」にマッチしている。
日本はここに合わせにいっていない。これは日本人の誰もが感覚的にわかると思うんです。ジャポニズムは「神秘」よりも「粋」や「わびさび」でしょ。と。
なので【「神秘」なるものは日本的考え方にはない】ってことなのだとわたしは思っている。あってもせいぜい厄払いか呪い。
そのうえで、スピリチュアル・ブームを見ていくと、「明太子スパゲティー」みたいな妙味があって、おもしろいなぁと思います。