今はイスラームを掘り下げていますが、その前にヨーガを含むインド哲学、チベットや中国を経由して日本に伝わっている教えを中心とした仏教を、ちまちまと楽しみながら学んできました。そういうことをしていると、アジアや中東の宗教を比較したときに、いくつか「この宗教はこの点についてどう捉えているのか」というポイントがでてきます。
今日は先日紹介した「インド思想史」にあるインド思想の引用紹介を挟みながら、世界の宗教を横断的に学ぶときにありがちであろうあれこれについて、現時点のわたしの理解について書いてみます。
なんでこういうことを書こうと思ったかというと、関西生ブログで読者さんたちとお話をしたときに、このブログを読んでいるみなさんは「学び方」に興味があるみたい、と感じたから。わたしのような天然のオタクでない人は、宗教アレルギーな雰囲気の日常なかで学んでいくのは孤独だし、ちょっとしんどいのかもな、とも思いました。
そこで、今日はJ・ゴンダ教授の「インド思想史」を使って、「宗教を学ぶときに混乱しがちなあれこれ」という視点で書いてみます。勉強ネタは大げさに書けば大げさに仕上がるのですが、そこはできるだけ軽めに、わたしのいつもの調子でいきます。
お題は5つ。範囲はアジアに近い風土の宗教からの広がりで。
■アッラーって、梵?
仏教やインド思想を先に学んイスラームの学びにはいると、わりと多くの人がこういう感覚になるのではないかと思います。
この「梵」というのはヒンドゥーと仏教では「同じインドじゃねーか」といいたくなるくらい、時代時代で解釈がたくさんあって、ややこしい。そのややこしさを紹介します。
リグ・ヴェーダを読んでいると、この「万物の主的ななにか」「偉大な、崇高なもの。威力」はしょっちゅう登場するのだけど、これはインド思想史では妙にバリエーションが多い。
- 潜在力 ドハートリ(Dhatr,能造者。収穫を助ける「堆積者」)
- 神的勢力 ヴィシュヴァカルマン(Visvakarman,造一切者)
- 神々の工匠 トヴァシュトリ(Tvastr)
- 生主、創造主 プラジャーパティ(Prajapati)
(35ページ周辺より)
よっつでも多いというのに
千頭・千眼・千足を有す。彼はあらゆる方向より大地を蔽いて、それより、なお十指の高さに聳え立てり。プルシャは、過去および未来にわたるこの一切なり。また、不死界を支配す。食物によって成長するものをも。彼の偉大はかくのごとし。(以後すごさ表現例が続く)
(36ページ)
リグ・ヴェーダではさらに「偉大な原人プルシャ(purusa,人)」が存していた、ということになるのでややこしい。しかも人だし。しかも「プルシャ」って別の意の用語とまるかぶりです。梵(brahman)いっこだったらそんなにややこしくないのだけど、とにかくバリエーションが多い。
この(リグ・ヴェーダの)初期のテクスト中、すでに、創造者、あるいは万物の第一原因を、神々以外のものに求めようとする傾向が明瞭に認められる。人々は現象界の多様に、また神的勢力の多数に疑問を持ち、中性 "概念" たる唯一、万有の本源たる唯一の潜在力を探し求める。
(36ページ)
さっき多い多いと文句を言いましたけども、これ、よく考えると日本はもっと多い(笑)。でもなんとなくエースは太陽神、天照大神なかんじになっています。
エースが定まっている感でいうと、イスラームに近い面があります。コーランに出てくるアッラーは、創造に関する章句も多い。そこでイスラームはアッラーの奴隷になることが帰依なのだけど、インドは全般ざっくりな言い方をすると「修行萌え」なので、すごいもんに従うのではなく「突き詰めて一体化しちゃうぞー」ということになって、
インドの思想は、「個我(アートマン)」と世界の本源との同一に帰着した。
(121ページ)
ブーメランで自分に戻ってくる。
奴隷か一体化か。自分はどっちだろう? と考えたとき、二択なら後者なんだろうけど、それもしっくりいかない感じがしませんか。それは、「仏教」ではちとスタンスが違うからです。
仏教は、徹頭徹尾、梵(brahman)を否定した。唯一恒存の宇宙的存在を認める必要がないし、それを認めなくても一切は十分説明できる。
(中略)
ただ業の説だけが世界の出来事や世界苦の説明を可能にする。
(121ページ)
と、くるわけです。ベースはこのスタンスなんですね。大日如来のポジションの絶妙さも興味深いところなのですが、そこはさておき。
ヒンドゥーと仏教は「似たもの」とばっくり思いがちなのだけど、出だしのところでは違っている。これがヨーガとなると「修行アプローチ」という方法が仏教とほぼ同じといっていいノリなので、混乱しがちなところです。
そして同じ仏教といっても、「自己が救われるための修行アプローチ」について語る仏教と、「衆生を救うことにフォーカスして考えなおされていった仏教」ではまた様子が違っていて、阿弥陀信仰なんかはかなり梵に近いノリ。この後者とイスラームは非常によく似た考え方なので、「アッラーって、梵?」という感覚が出てくる。でもアッラーさんとの一体化なんてありえない。
神との「関係」「アプローチ」について学ぶとき、「創造主がどんな存在か」という違いをまず見るのはひとつのポイントかなと思います。キリスト教やユダヤ教もそうですね。
■解脱・輪廻転生のあり・なし
解脱をありとした瞬間から修行萌えに走る、というのがわたしの端的な理解なのだけど、イスラームの場合は解脱目的じゃないところで、まるっとそういう所作が織り込まれている。身体科学的な側面から見ても、さすが新しい宗教だな、と。
インドはどうか。
彼ら(ウパニシャッドの作者たち)にとって、解脱とは何であろうか。消極的には、個人格の核心を現象的なものから解放し、再度の出生を防ぐことである。積極的な定義づけは区々である。
あるいは梵、あるいは最高神とされる最高霊に、個人格の核心が帰入すること、霊我のみの絶対的状態、あるいは、喜び・悲しみなどの対立を超えた状態に到達することなどである。また通俗的雰囲気をもつ叙事詩では、解脱に関して天上界での報いが予め語られていたりもする。
(148ページ)
この最後の「通俗的雰囲気」がポイントです。やっぱりそこは、モチベーティブだったりする。
そこのところが、イスラームだと「死んだあとに天秤にかけて、目方でドンをするよ。生まれ変わりとかそういうルール、ないからね。そのかわり、アッラーは細かいことまで全部見ているから、安心して頑張って生きなさいな」となる。(コーランの紹介で「五つ星ホテル級の精度で民を見守る圧倒的なきめ細やかさ」と書いたアレです)
イスラームは、このややこしいモチベーションのところをアッラーがものすごいキメ細やかさとおおらかさで担保してくれていることによって献身が自然にできる流れになっている。近代文明化のなかで、どちらが好み? と言われたら、けっこう迷いませんか。
■帰依と奴隷、献身の概念
宗教を学ぶときに、ここはキモであるなぁとよく思う。
イスラームはとてもわかりやすい。みんな、アッラーの奴隷。献身の概念まで一律感があって、それが社会の法と密着度が高いゆえに、「アピールしない」感じが素敵だったりする。
インド思想での献身となると、それは神への献身よりグルへの献身が前面に出てくることが、とくにヨーガの場面では多い。
「献身」の概念は、その特殊な性格からいって、最古のウパニシャッドではまだ知られず、シュヴェーターシュヴァタラ・ウパニシャッドに至って、初めてその末尾部で登場する。そこでは、最高神に対する、あるいはインドで非常に篤い崇敬を受けていた「導師、心の教師」(guru)に対する献身が説かれる。献身が、有神論的な信仰の行われていた一般社会で発達したことは疑いを容れない。
(171ページ)
バクティ・ヨーガですね。
そして
献身はそれだけで十分効果あるものであるが、ギーターの詩人はこの「献身道」(bhakti-marga)に「知識道」を習合させる。「習合」は、適切な用語でないかもしれない。この時代、最高の存在の人格的局面と非人格的局面が明瞭に区別されていないのはよくあることだし、人格的局面が力説された場合、「献身」が浮かびあがり、非人格的局面が強調された時、「知識」が表面に現れるものと考えられるからである。
(172ページ)
ここはいい解説だなぁと思っていて、キリストを「神」「人」のどっちの比重を多く見るかという感覚と似ている。
そして、ここで「知」を持ってきちゃうあたり、頭がよくて勉強大好きなインド人すげー、と素直に思います。わたしは古代のインド人に対して、「けっこう無理矢理な話も多いけど、あなたたちの頭がハンパなくいいことだけは200%認めます」というスタンスでいます。
日本人にとって「習合」といえば「神仏習合」なので、たしかに適切な用語ではないかもしれないな。それって神道だっけ? 仏教だっけ? なんてことはどうでもいい感じで
「お天道さまは見てる」
という感覚。これは時代劇を見て育ったわたしの感覚だけど、イスラームではまさにこの役をアッラーがやってくださる。インド思想にもこういう感覚はあって
神々の掟に違反したり、「天則」に逆らって行動する人は、自らに罪穢を招く。
(16ページ)
太陽様様度でいうと、ヨーガは日本の神道よりもノリノリで、あんなにしんどいスーリヤ・ナマスカーラまでする(笑)。イスラームは砂漠の地の宗教なので、太陽は嫌われて、月のほうが親しみをもたれる。
「豊穣」を恵みとする「風土」で生まれた宗教とそうでない宗教の違いが根底にある。小学校くらいの教育で、こういう風に宗教に触れ始めると、世界史も日本史も地理も社会もすごく学びやすくなると思うんですよね。というか、教えてほしかったよね。お子さまをお持ちのヨギさんは、「日本は田んぼがあるから、おてんとさまがありがたいのよぉ」「砂漠では日が沈むと喉の渇きから開放されるから、お月さまがありがたいのよぉ」と教えてあげてください。
■神秘主義と権威と金
イスラームにもスーフィズムという神秘主義があって、インドでのイスラーム伝播にこの人たちがかなり大きな役割を果たしたそうです。おもしろいですよね。
どの宗教も神秘主義・神秘思想との関わりを読むのがおもしろい。そこから権威と金の話になるのだけど、インドでは「マハーバーラタ」が歎異抄のような影響力を持っていたようです。
バラモンたちの観念を受け容れない人々に対して、最古の文献は早くも論難を加えている。梵=我(アートマン)の教えが登場するや、これを認めない人々は、あたかも眼球に映る人像や水面上の映像などを霊魂と見做す(みなす)人々と等しく、知識浅薄なものと蔑まれる。後世、「霊魂」の非物質性を固く信ずる人々にとって、このような徒輩はいわば唯物論者で、一片の同情にも価しないのである。というのは、この徒輩は神々に供犠を捧げることもなく、バラモンたちに何の施しもしないからである。
(中略)
丹念に仕上げられた「実利」説は真にインド的で、「正統派」の思惟に淵源をもたない教説の一つでえある。この説は、ヴェーダを単に「心の惑い」と見做して法(ダルマ)を否定するか、または精々(せいぜい)法(ダルマ)によって自己の利益が促進されるような場合に限って認めるという。甚だ極端な論客を多数擁護していた。「王侯が供犠や苦行によって、いったん臣下を獲得したならば、王侯は狼のごとく臣下を搾取せよ」と、冷血の唯物論者バーラドヴァーシャ(Bharadvaja)は説いている。
他の論者たちは極端を避け、表面を巧みにっつくろい、できる限りバラモンたちの教説との間の軋轢をなくすように努めた。カウティルヤ(Kautilya)がまさにそうである。
(211ページ)
インドの「バラモン」は、同じ「儀式の人」であっても日本の神職とはまったく違う印象を受ける。仏教で言うと小乗的な、特別感満載の存在だ。ここを読んでいて、施しへの交換は「そういうことになっているから」という「伝統」や「神秘」にしておけばすんでおったところに、余計な概念を持ち込みおって、ぬぬぬ……。という震えが伝わってきそうだった。
いくら崇高な教えに従っていても、いざ競合が目の前に現れて「圧倒的に自分が損な感じ(もしくは、集金システムを奪われる)」となると、利を「権威」でラッピングする技術が発達する。但し書きが増えちゃう。
わたしはイスラームのコーランが面白いと思うのは、こういう利害関係のあれこれを想定済みかのようにめちゃくちゃ細々と書いてあること。それぞれが「自分の方法で」勝手に神との関係を語ることができないようになっている。さすが後発宗教、と思うのはこういうところ。「覇権欲」が織り込まれている。
■仏教は悪魔を認めないから、ある意味きびしくて冷たい。だけど、やさしい
宗教を横断的に学べば学ぶほど、「仏教ってきびしいなぁ」と思うようになります。「お前のなかで起こったことなんだから、お前でなんとかしろ。以上」だから。
その基本スタンスと対比する形で「方便」がすごくやさしくて、膝を打ちすぎて真っ赤になっちゃうくらいのもんだから、「落として救う」感じにヘロヘロっとなってしまう。これが、仏教のジゴロ感(要注意)。
昔は悪魔に近い存在として「もののけ」を恐れていて、それは神道からの流れなのだけど、祈るとなったら陰陽師も僧侶も祈る。祈りまくっていた。神と仏は別の存在だけど、悪魔の存在を「感じた」瞬間、もはや悪魔を認めるとか認めないとかいう話ではなくなる。こういう日本の仏教のユルさって、すてきな「妥協力」だと思うんです。なにが正しい、正しくない、元来はこうであったはず、なんてことはさておき、「とはいえ、不安ですよね。わかります」というスタンス。
仏教のやさしさは、心がスッと軽くなる、なんてキャッチコピーをつけられそうな「よくできた方便」よりも、ブッダ以降の人がああでもないこうでもないと受け継いできた「続き方」にあるように思います。だから、日本の仏教は歴史と重ねて学んでいくと、おもしろい。元々の教えはきびしいくせに、とにかくあの手この手でいつも「つらいですよね、わかります」。をやっている。サービス精神が旺盛(笑)。
わたしにとって現代日本の仏教は、宗教というよりも「カウンセリング」といったほうがしっくりいく印象です。そこへ至るまでの間にさまざまなスタイルの人たちが、救われ方のバリエーションを出してくれている。「罪悪感からの救い」もたくさんあります。そう、日本の仏教は、
「もともと罪悪感を持ちやすい人種が築いてきた宗教である」
という特徴がある。これはもう感覚的なものだけど。
インド人はね、いろいろあの手この手で「こら! 愚か者めっ!」としないとサボるからね、いろんな思想が発達してんのよ。たぶん。「バチがあたるぞ」なんていっても「じゃあ、あたる前になったらやるわ」ということになるから、「来世」っていえばもう少し言うことをきくんですよ。たぶん。サボれる階層を増やしたいから、その権威を守りたいから、仕組みもまたまたいろいろ発達したのよ。たぶん。
と仮定すると、宗教や思想が学びやすくなりませんか? まあこれは、学びの上での楽しい妄想のしかたのアイデアですが。知らない国や風土の考え方は、情報を越えたら想像で補うしかないですからね。
学ぶときの自分という主体で言うと、宗教について学ぶときはいろいろなことで頭がごちゃごちゃすることがあると思うのだけど、瞬間瞬間、自分がいま見ているものはなにか
- 範囲を決めて比較しているのか(地理と時代の確認)
- 風土や歴史とともに大きなうねりとして見ているのか
- 文明化や政治の流れと併せて見ているのか
ということをちょいちょい立ち止まって見てみるのがけっこう重要かなと思います。
わたしはよく年表を書きます。
信仰は心を科学するものだから、「すばらしい教え」「思わず膝を打つドッキリ表現」がいっぱい出てきて、「なんとなく癒やされた」感じになる。それで「○○教に興味がわいてきた」ということになると思うのだけど、もう一歩ドライに掘り下げてみることで、「いまの自分の悩み」の種にぐっと近づけたりします。霞のような存在であった悩みが立体化してくるような、そういう感覚になります。
そうすると「悩み」という感覚が「課題」という感覚に近くなってきて、整理してみようかとか、向き合い方を変えてみようかとか、そういうふうになってきます。
学ぶことで癒やされるんです。ガリ勉瞑想(笑)。
<本日のテキスト>わたしの手元にあるものは中公文庫です。