うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

写経で感じたシークエンス

今日は、今年最後の写経の日。ほぼ毎月、等々力不動尊の写経会に参加しています。日記を見直すと、初めて参加したのが去年の10月なので、もう1年以上、地味に続いています。前回同様、写経舎では道場のヨガ仲間2名に遭遇。ヨギのなかで、めちゃくちゃ密かにブームです(笑)。
ちなみに今日の為書き(願い事のようなもの)は、「時計成仏」です。まあ、「財布成仏」のときと同様、新しいものを使い始めるときの、古き仲間への供養です。今回の場合は「紛失」してしまったので、どなたかに拾われてちゃんと使われているか、どこかで成仏していて欲しいと思います。

写経のほうは、もうずいぶんと速書きになって、ぐちゃっとした字もさらっと流すうちこですが、今日はいくつかのことに気づきました。


 写経はまるで、ヨガのシークエンスのようだ。


●感じたことリスト
・墨の量は、呼吸の量のコントロールと似ている。

・墨との関係を「書き終える最後の一行」まで意識し続けることは、「最後のシャバ・アーサナ」まで体力のコントロールをするのに似ている。

・筆に墨が染みてくると、書く流れがするすると滑り出す。呼吸と動作で身体がじんわりとあたたまってきたときに、似ている。


最後のひとつに気づいたあと、もうひとつ俯瞰したところで、また気づいた。


 筆が身体で

 書いている「わたし」は、そこにある存在

 動いているのは、あくまで「筆」


写経も、動く瞑想だねぇ。



さて、今日のお散歩は、紅葉とともに。
家から写経舎までは、歩いて1時間。ちょうどよいお散歩コース。


砧公園では、いろとりどりの、落ち葉の絨毯の上を歩き



左は環八、右は新緑、の道



滝修行をする人が、準備する時間につきました。



大好きな階段。赤と緑で、クリスマスみたい。背面の滝には、白いサンタさん♪



とっても美しいけれど、なんだか少し淋しい気持ちになるのは、日本人のソウルってやつかしら。紅葉も桜も、「いま」に生きている。失うことが「当然」で、案じてもしょうがないんですよね。でも、なんか「もったいない悲しい」みたいな気持ちになってしまう。ソウルというよりも、貧乏性なのかも……。


(というかもう暦は冬だけど、暖冬……)は、人をおセンチにさせますなぁ。紅葉の木にイルミネーションがついている状態とか、「お好み焼き定食」みたいで、ちょっと食いきれない感じね。