先日、友人と初詣に行ったらお寺に大黒様が鎮座していて、その姿が似ていたことから『笑ゥせぇるすまん』の話になりました。
昔ニュース番組の途中で放送されていた、大人向けのアニメです。
「あれ、いま見るとすごいよ」と聞いてあらためて見たら、自分にはもっといいことがあっていいはずと潜在的に思っている人、悲観しながらも実はあきらめていない人をターゲットにしたビジネスマンの話でした。
ココロのスキマって、そういうことだったのか! といまさら気づきました。
実生活でわたしは『笑ゥせぇるすまん』一話ぶんのココロのスキマを100分の1くらいまで細分化して散らしてちまちま埋めていますが、それはたぶん健全な状態のときにできることで、道徳心や他人を尊重する気持ちが存在できているから。それが機能していれば、ココロのスキマを刻んで埋めることを ”ちまちま” やれる。
もしかしたら、個人の性格やキャラクターを形づくっているのは、この「やり方」かもしれない。『ばにらさま』に登場する人たちの思考に触れたら、そんなふうに思えてきました。
『笑ゥせぇるすまん』は「ココロのスキマ、お埋めします」と名刺で謳っているけれど、実際にはココロのスキマをガバッと開けるところもやっていて、ちょっとした詐欺師です。
スキマをスキマと感じるように相手の欲をかきたててから仕事に入る。夜の通販番組の手口です。
リアルな人間生活であれば詐欺師に引っかからない思考の守護神的存在「自己批判」が立ち上がる。それが日常で「悲観」という形で巣食うと、必要なときに守護神として機能しなくなってしまう。
この短編集の最初の物語に登場する『ばにらさま』には、詐欺師を前に立ちふさがる守護神の存在を見ない浅はかさがあるけれど、人間としての愚かさのバランスが時代にフィットしていてドキドキしました。
その後に収録されている物語も、他人との会話で信頼関係が積み上がらないと感じるときはだいたいこういう展開ですれ違っているよな……と思うことが再現されています。
あ、いま発言者のポジションが変わった、という瞬間までの組み立てが絶妙で、二話目の『わたしは大丈夫』は完全にミステリーの面白さでした。
どの話にも、他人との距離の詰め方がぎこちない人が出てきます。ぎこちないところまでは、現在は寛容な世の中だから、そこまでで済んでおけばよいのだけど。
他人との距離の詰め方がぎこちないを超えておかしな状態までいくときに起こることは、親しい関係性を早く想像しすぎること。それで失敗します。時間も手間もかけずに信頼関係を脳内で積み上げようとしてしまう。
『笑ゥせぇるすまん』の顧客が引っかかる展開と似ています。
こういうことって、よくあります。だけど文章にするのはむずかしい。
短編ならではのスピード感にすっかり持っていかれてしまい、できるだけゆっくり読みたいのにすぐに読んでしまいました。