なんだか回りくどいタイトルになったのですが、ずっと思っていたことが今回のタイ旅行でよくわかった、そんな出来事がありました。
旅行中にタイの人と仲良くなって、写真を送ってもらえることがありました。
送られてくる写真を見て、自身の見た目を補正したり盛ることに対してあまりに屈託も躊躇のない様子に、文化というかマインドセットの違いを感じ、勉強材料になりました。
リアルで会ってるから実物は実物として、もうね、画像の上ではマイケル・ジャクソン並みにやる。
- 肌と歯を白くし
- あごを尖らせ
- 目元くっきり
この加工が加えられた画像が「今日の写真☆」と深夜に送られてきて、朝にそれを見て「なんじゃこりゃああああ!!!」となる。
そんなことがありました。
わたしは、二次元ではこの設定でやっております!
という、その人のデフォルトが見えてきました。
最初は驚いたのだけど毎回そうなので、なるほどと思いました。
スマホが普及して写真を撮る人が多くなって、「補正したい」「盛りたい」気持ちの量が可視化されるようになっているけれど、どんなものはもうとっくに通り越して、編集前・編集後、どちらのわたしもよろしくね! ということになっている。
編集があってもなくても、その人と話しているときに感じるキャラクターは、平成のイケイケ女子という感じで明るい人です。
── ここでいったん、時間の針を25年前に戻します。
わたしは20代の頃に商業印刷物のデジタル加工部門のようなところで働いていたことがあって、プロのカメラマンが撮った人物の画像を「できるだけ自然に見える範囲で」補正する技術のすごさを知っています。
これは、いまもそうだと思います。
やりすぎない範囲で
このギリギリのところをうまくやる技術が、専門誌で扱われていました。
わたしもそういう雑誌を職場で読んでは、フォトショップというソフトを使って試してみたものでした。
だけど、こういう価値観もいつの間にか古いものになっていると、そういう話をもう何年も、あちこちで聞いてきました。実物との乖離がしんどくなったら、一般人も実物を加工する時代。
学生を相手にしていた友人や、ゲーム業界で若いメンバーとともに働いている友人から、色々聞いてきました。
タイでは年配のかたも楽しそうに「ありのまま」で、決め顔でポーズをとっています。
「大人のくせに」「いい歳して」みたいな嘲笑の視線のない世界で、老いも若きも楽しそう。
人は自分を装飾したい心を持った生き物なんだ、という前提に対して正直です。これは時代や技術の変化とは別の、もっと根っこにある設定の違いです。
こういう躾の歴史の違いを見るのも、旅の楽しい側面です。
やあ! 君は元気かい?