相手に決めて欲しいときに、グイッと引っ張って欲しいときに、都合よく弱い人のポジションをとりたくなる。そういうときの自分の居心地の悪さをどのくらい認識しているか。
相手が優柔不断。ならば自分で! と、自然に湧き上がってくるわけではない幻の肝っ玉を発動させてまで望まぬキャラクターを演じる気概もなければ関係性を維持する気力もない。なんと正直なことだろう。
この物語の主人公が「あの人、意外と弱くてかわいいところがあるのよ」なんて言われる展開にならなくてよかった。自然に湧き上がっているわけではない肝っ玉を無理やり出さずにすんでよかった。
途中で何度も、よくある人権侵害が起こる。そんな社会を慣れた手つきでスイスイ泳いでいく主人公が頼もしい。そうそう。現代的な頼もしさって、こういう感じ。
他人に伝わりやすい物語に乗せた自己紹介を躊躇なくできる人には、この作家の小説はイライラするんじゃないだろうか。わたしは昭和生まれで、そのあたりを割り切って躊躇なくやれるところもまだ少しあるから、少しはイライラした。
だけどこんなふうに少しはイライラするわたしも、自然に湧き上がっているわけではない肝っ玉を無理やり出すことを前提にしてくる人とは付き合わないし、友だちにならない。
それにしても。
主人公のこれは、なに? 罪の意識なの?
そんなことは脇に置いて、別の川でもっと大きなフォームで泳いでみたらどうだろうか。このひと頭いいんだし。と思いながら読んだ。
そして、その気持ちを主人公ではなく、自分に向けなければとも思った。
水たまりでしか泳がない気分のまま、それなりに大きな決断をする気持ちを、著者はみごとに書く。
それは気分がいいものだった。空っぽのパズルケースのまんなかに、ひとつだけぽんっと正解のピースを配置されたような感覚。ひとつしかないから完成していないけれど、まんなかだし、正解だから、いい気持ちだった。
まんなかだし、正解だったらいいのか。
まんなかで正解だけど、わたしは嫌だな。という気持ちは、元気がないと出てこないもの。この主人公は疲れている。最後に休みが与えられてよかった。