うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

水仙/白鷺 林芙美子 著

自分の人生に起こった重い話って、みんなどうやって消化しているのだろうと疑問に思うことがある。

その時はじっと耐え、時間薬が効いた後には話すのもつらい見るのもつらい。だから人は本を読むのか。

 

わたしの周囲で林芙美子の作品を好んで読む(あるいはそれでわたしの話に付き合ってくれる)友人たちと話していると、この点においてとても気が合っていると感じる。

林芙美子は人が虚栄心を保ちながら空洞化していく中間の、外側からは絶対にラベルを貼れない瞬間を、まるで写真に撮って見せるかのように書きながらユーモアという名のスパイスを織り混ぜる。お料理名人だと思う。

 

過去に読んだ『泣虫小僧』は、まだ遊びたい年頃の母親から "どこかに消えてしまってくれたらいいのに" と思われている少年の話で、今の感覚で読むと精神的虐待どころではない話。

映画化もされていて、映画も観た。自分がノイズだと自覚しながら生きる子どもの気持ちなんてなかなか書けるものじゃないはずなのに、母親の気持ちも含めて人間世界(=社会)を描いていて、その時代の多様性を思い知った。

多様性多様性と叫びながら「その多様性はあってはいけない」と定義していこうとする現代社会はやさしい方向へ向かっている。それを社会が模索している。

 

 

講談社文芸文庫から出ている短編集に収録されている『水仙』と『白鷺』も、昔の多様性と格差の話で、すごい内容だった。

改行のないギッチギチの文字だらけのページが続く。どんどん読まされる。

水仙』の主人公はシングルマザーで、育てるだけでも大変だったのに、自立・就職ができない息子の存在にぐったり疲れきっている。

たまえはタオルを取って鏡をのぞいた。皮膚にあからみのさした顔が生々して来た。いつも、こんな肌色をしているといゝンだけれども、石油臭いコオルドクリームをべっとりと顔中へ塗りたくる。ぎらぎらと光る顔に、節くれだった指が目のふちを幾度もマッサアジしている。やっと化粧の出来た顔に、また前髪を大きくかぶせて、小皺のよった瞼に紅を点じて遠くから鏡を見た。洗面器のどろどろに汚れたぬるま湯が、たまえには貧乏たらしくて厭であった。もう五日も風呂に行かないせいか、化粧した顔も案外垢抜けしない。荒れて固くなっている唇の紅も少しものびないので受唇の唇が、色の悪いまぐろの刺身でも見ているようだ。

(『水仙』より)

魚介類の使い方がうまい。

『泣虫小僧』で使用された牡蠣と同じくらい、魚がすごい調理法で出てくる。

 

 

『白鷺』の主人公は、女の価値を売りながら戦時中をしぶとく生きぬいて、若い世代からあっさり邪険にされる。

 押し潰された傷の上に、また傷のつくと云う人生にもとみは馴らされて、とみはまたビール瓶を透かして酒をコップについだ。手がぶるぶるとふるえていた。さち子はとみのいろいろな思い出話を聞いても、少しも感動しなかった。昔のまだ自分が生れない頃のとみの色恋の話なンかどうでもいゝのである。さち子は、この伯母の手元からさっさと解放されたいのだ。小田原に小さい家を持って、男と差しむかいで暮せる空想がさち子をうきうきとさせる。明日は正午に、銀座のPXの前で待ちあわせて、二人でデパートへ鏡台を見に行く約束があった。

(『白鷺』より)

固有名詞の使い方ひとつで時代の価値観の変わり身の早さをギュンと要約してサッと終わる、ものすごい手際のよさ。

かつて銀座の松屋アメリカ軍専用の売店になっていた時期があり、当時の呼び名が「PX」だったらしい。(小説が発表されたのが1949年で、その3年後に松屋デパートは返還され、名称も元に戻ります)

 

 

どんなむずかしい食材でも、干からびたり腐りかけている食材でも美味しく料理してしまう。これは包容力なのか創作意欲なのか。たぶん後者なのだろう。

ありふれたしんどい人生を文字にするプロの技に舌鼓、みたいな読書時間だった。

 

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同じ本に収められていた『松葉牡丹』もおもしろかったです。