うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

食べて、祈って、恋をして(映画)

原作を読んだら映画を観たくなり、一度では拾いきれなくて二度観ました。
あの分厚い、長い旅行記のような物語をどうやって2時間に収めるのだろうと思いながら観ていたのですが、第二部のインドと第三部のインドネシアは原作のエピソードが濃すぎるため、かなり要約されていました。でもそれは原作で読めばいいのです。

 

それはそれとして、今のわたしに大発見がありました。
第一部イタリアの「食べることで回復していく様子」の映像の訴求力によって、会食をよしとしない自粛生活で自分の気持ちが淡白になっていることに気がつきました。
わたしはもともとあまり食べるものに幅広い関心を持てなくて、子供の頃から好きなものが変わらず、ひとりの外食では気に入ったものばかり食べ続けています。
それでも自粛前は一緒に行動した人と話の流れで食事をする機会があって、日常ではないメニューの食事をする行為に見えない効果があることをあらためて実感しました。
回復をもたらすエネルギーが目と耳から入ってきて、不思議な感覚でした。

 

それ以外の部分は人物の性格や関係性を説明するために差し込まれたエピソードがおもしろく、そこは二度観ることで気づきました。
一度観るだけでは「原作の内面探求が薄められている」と感じて終わったと思います。これは最近になって気づいたのですが、わたしはほとんどの映画のおもしろさを一度で理解することができません。二度目は、ここはなんでこうしたんだろうと考えながら観ていました。


映画は住まいや移動手段、服装やしゃべり方で補強される人物設定の要素がとても多く、裁判でもめている頃のジュリア・ロバーツが髪の毛を縛るとものすごくやつれていて、恋愛に依存してしまう一段階前のメンタルの特徴として「なにもしない」ができない、常に外部にアテンションを求めてしまう精神の不安定さが細かく随所に織り込まれていました。

「どうしたらいいの?」と恋人に尋ねて「何かを待つのをやめたら分かる」と突き放される場面の鬱陶しさは恋する女の重たさがギュッと圧縮されていて、主人公の性格を一瞬見せつけてから物語が転がり始めるのがおもしろい。

 

イタリア編では、自室でヨガマットを雑に扱う場面が一瞬挿入されていて、主人公がどういう心理状態でそこにいるかがわかる。なにげに細かい説明が散りばめられています。


インド編では、後から入ってきた自分と同じように弱っている人間に近づいて、皮肉を織り交ぜたトークで注意を向けさせるコミュニケーション手法をとる、新たな環境でありがちな人間関係をエグ味たっぷりに凝縮したような光景を見ることができます。

テキサスからインドへ来ている人物を演じる俳優さんが「旅先で出会う、同じ国から来た年長者あるある」をリアルに見事に演じていて、原作よりも映像化されることでリアリティが大幅に増していました。(もうそろそろわたしは、自分がこれをやらないように気をつけるべき側の年齢になるのだけど)

 

 

この映画のラストをどう思うかは大いに意見が分かれそうですが、原作を読んでから見ると、リズ(ジュリア・ロバーツ)に

 

 

  自分への愛を人への愛で証明するの?

 

 

と言わせる構成は、なんとここで原作の厚みを一行で要約してきた! と驚きの瞬間です。脚本がすごすぎる。まさかまさかのショートカット。
その前に「”調和” のお説教はたくさん!」というフレーズもあって、主人公が自分の生き方に罪悪感を抱く仕組みに気づいてそれに向き合いはじめた、そんな意識を匂わせています。一瞬挟まれる「ああもうキレそう」のセリフがそれを表している気がして。

 

わたしみたいな見かたをする人がどのくらいいるかわかりませんが、わたしもこういうやりとりの経験があるので、嫌な現実味を最後に投入してきたな、でも原作のおもしろさもまさに、こういうところだもんな……と思いました。

結末は、いちおう結末をつけておかないと終わらないもんなぁ。著者は生きているし。と思いながら観ました。新版の原作で「十年目のまえがき」を読んだばかりというのもあるけれど。

この物語はそのくらい、中年になってから観ると過去の経験のあれこれが感想に反映されます。