同じ現代書館の「フロイト」がおもしろかったので「ユング」も読んでみましたが、フロイトが1980年に第一号として出版されたのに対し、こちらは65番目のタイトルで出版は1993年。外国語のものを翻訳したのではなく、はじめから日本人の著者によって書かれたものをこのシリーズのテイストに寄せた形。なんというか、フロイトの本のインパクトと比較するとかなり真面目というか、マイルドです。
それでも愛人の面々(ザビーナとトニー)についてはしっかり触れられていて、ユングがニーチェを「無意識の世界のみこまれて狂気に走った」というふうに見ていたことなど、細かなことが網羅されていました。
ユングの思想についてはペルソナ、コンプレックス、シャドウ、アニマ、アニムス、セルフなど、あれもこれもユングの定義だったの?!という解説が続き、なかでもユングのリビドーの捉え方について書かれている箇所はこれがフロイトとの違いかということがとてもわかりやすかったです。
ユングは最終的にはリビドーを物理学的に数量化できるとする発想にはなじめなかったようである。
彼はリビドーに関して "生の本能" とか "たえず前進しようとする意志" とか「ショーペンハウアーが世界意志を定義して述べた "無限の意志" である」とも述べている。(中略)ユングは人間の本能は性欲よりもはるかに広くかつ生物学的基礎のみに限定することのできない創造性を持っていることを訴えたかったのである。
(74ページより)
ユングはクンダリーニ・ヨーガの研究もしていたくらいなので、リビドーを「シャクティ」に近いものと捉えていたのだろうな、というのがこの本を読んだら見えてきました。
わたしがここ数年でよく行うようになった「ひとり相撲」は、ユングの理論で言う「シャドウ」との対話でもあるな…、という発見も大きく、この相撲の稽古をはじめておいてよかったなという気持ちになりました。以下の箇所を読んでそう思いました。
大切なことはシャドウから目をそらすことなく、これを凝視しつづける勇気を持つことである。我々はえてして、鏡に映る自分の醜悪な姿にたじろぐものである。そこからシャドウの他人への投影がはじまる。
他人に投影していたシャドウを自分のものとして引き受けるということ ── これを投影の引きもどしという ── がぜひとも必要になってくる。悪い奴、嫌な奴、とは彼もしくは彼女のほうではなく、あくまでもあなた自身の内なる影が問題なのである。以上のようにしてシャドウと向かい合うことによって恐ろしいイメージ自体もしだいに変化してゆく。
これは意識がシャドウに接近して、今まで分離していたシャドウとひとつになることであり、シャドウの統合ともいわれるものである。シャドウが意識に統合されることは、現実生活においては不合理な暴力的衝動におびえたり、ふりまわされたりされなくなることである。
(121ページより)
嫌なことを言語化しようとするときに引っぱり出す弁解の論理を自分の中であげつらえていくと、ほんとうに自分の弱さがよくわかるから不思議なものです。自己弁護の言葉は嫌いな誰かを使って導きだすのが効率的で、相手に対して「わたし悪くないもん!」と言いたいがための論理を必要としなくなったと感じられるときには、自分が根っこから強くなったと感じられる。この感じも、ユングはすでに解いていたのね…。(この本の中では、ヒトラーがイラストに使われていました)
映画「危険なメソッド」にザビーナが自身の中の男性性について話しアクションを起こす場面があって、ザビーナの考えがのちにユングのアニマ・アニムスの理論に影響を与えたとも言われていますが、あれはほんとうに粋な脚本。映画のおもしろさも再確認できました。
- 作者:大住 誠
- 発売日: 1993/10/01
- メディア: 単行本