『教祖誕生』に近い時期の発言が知りたくて読みました。映画版の公開年と同じ1993年に発表された本です。(この小説と映画です)
読んでみたら統一教会とオリンピックへの言及が多く見られ、なんでこんなに? と思っていたら、1992年は夏も冬もオリンピックがあり、夏はバルセロナ・冬はアルベールビル。先進国がオリンピック・バブルに酔いしれていた時代のピークがここなのでした。
いま読んでもタイムリーで驚くところと、当時の発言が痛く感じるほど社会が改善されたと思うことの両面がありました。
自分は日本がどんな選択をする国だったら、自分の誇りにつながる考えが持てただろう。持てるだろう。そういうことを考えるきっかけになりました。
いくつか気になった題材がありました。
新興宗教への言及
オイラ働かないとか、ボロだけでいいんだとか、新しいものは一切買わないとか、若者でそういう気概のある奴がいるのが、文化のいい状態だよ。
それが出てこないということは、どうなっているんだろう。出てきたのは、幸福の科学みたいに、バブルにそのままひょいと乗ったようなものばかりじゃないか。
(金利を下げるバカ より)
もしかして桜田淳子に当るかもしれないって、今から統一教会に入ろうとしてる奴がいっぱいいるっていうのが笑わせてくれる。
やり方としては、「吉幾三とハワイに行こう」というセンスと同じなんだから。吉幾三さんも行きますから一緒に行きましょうと言われると、おばさんが、あっちで吉幾三に会えるかなって申し込む。
民族浄化なんて言葉が、二十世紀の末になって出てくるなんて思わなかったよ。ホロコーストはいけないことだと、戦後ずうっと言ってきたのに、未(いま)だに同じことをやってるんだからね。
アジアだって同じだよ。統一教会では、日本は悪だから、韓国が金をジャンジャン奪い取るのはいいことなんだと言ってるんだもの。だから霊感商法をやってるというんだ。
(徴兵制 より)
当時からヤバいという意識を持っていた人たちが「たけし」を支持していたのだとしても、人に期待しているだけでは解決しない。解決してこなかった。
オリンピック
いろんな競技についてコメントがありましたが、フィギュア・スケートの件が自分の記憶と重なりました。
小学生のときからコーチと一緒に暮らしてしごかれているなんて、まるで児童虐待だよ。サーカスみたいなもんじゃないか。そういうことをみんなでやらせておいて、転んだって怒られてる。
(中略)
フィギュアスケートで面白いと言ったら、試合の後のエキシビションの方がずっと面白いもの。ドイツのカタリナ・ビットなんて、マイケル・ジャクソンの曲で踊ったり、見ていてゾクゾクした。
(ものおじしない より)
体協っていったい何なんだろうね。オイラのバラエティ・ショーに、三段跳びの日本記録を持っている奴を呼ぼうとしたら、出たらそれだけで外されるから駄目ですって言うんだ。
とにかく、上層部にお伺いを立てて、OKが出ない番組は一切駄目。国の金を使って、体協とかJOCとかあるけど、誰がおまえらを委員に選んだんだ。全くわからない。
(徴兵制 より)
後者はたぶん「スポーツ大将」というテレビ番組のことかと思うのですが、カール・ルイスに似せた車みたいなロボットみたいなのと人間が競争をしていて、シンプルなおかしみがありました。
フィギュア・スケートは、1994年のリレハンメル五輪直前に「ナンシー・ケリガン襲撃事件」が起きています。
これをトーニャ・ハーディング側の視点で描いた映画を数年前に観たとき、オリンピックは虐待を虐待と感じない魔法がかかる祭典なのだと思ったのを記憶しています。
戦争と宗教と哲学
戦争に対する解釈・コメントも多く、当時からこのように語られています。
日本人は、どこで洗脳されちゃったんだか、戦争に対する考え方がまるで子供だね。加害者意識だけが異常に強いかと思えば、逆に、被害者意識だらけの人もいる。戦争という極限状態になったら、あらゆることが発生するし、行われる可能性があるということがわからない。
(徴兵制 の章より)
戦後の捨て方も物凄かった。残っていた土葬もほとんど火葬に替えちゃったんだからね。死ぬこととか宗教に関することっていうのは、外国の人にとっては、一番大切なことのはずなんだけど、我々は、いとも簡単に切り替えることができるものね。
要するに、好きな男がいないから誰とでも寝られる女みたい。何でも取り込める。宗教でも何でも理想があれば、何かを我慢するということになるけれど、はじめから何もないんだもの。とにかく一番気持ちいいもの、一番新しいものっていうのに価値がある。
結局、日本人にある哲学というのは『方丈記』なんだね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」って。そういう一種運命論的な、もう流れちゃったものはしょうがないという思想。そういう諦観だけは脈々とある。
(海外旅行千万人 より)
この部分を読んでからオリンピックのことを考えると、あれは理想があれば何かを我慢することができる人のもの。宗教ビジネスのひとつに見えます。
これは個人的な経験ですが、わたしはオリンピック関連でアンブッシュ・マーケティングを理解することが難しい民間のお店の人に指摘をする、そういう不毛な仕事の存在を知っています。
お祭り風だけど、ノッてはいけない。
「お布施をしていない人は、この場では手を合わせないで、心の中で拝んでくださいね。遠くから見るのも信じるのも自由ですから」と線を引くようなものなんです。
エイズ(HIV)のこと
『教祖誕生』(小説版)の終盤に、当時は死病と思われていたHIVを問いの題材としながら神について語る場面があります。HIVが死病ではなくなった2020年代にこの小説を読むと当然注釈が必要になる、でも、すごく重要な問い。
このセリフについて、当時どんな考えで題材にしたのか気になっていたところ、この本にHIVについての言及がありました。
エイズというのは、陽性になったとしても、潜伏期間が十年から、下手したら二十年あるんだよ。その間いつ発病するかわからないと言うんだけど、そんな長い期間なら、ガンだって、心臓病だってみんな発病の可能性を持っているわけで、よっぽど危ないじゃないか。
エイズばっかりものすごく怖がっているけれども、人間というのは、あらゆる種類の病気が出る可能性のある体をしているわけだろう。エイズだけ取り立てて騒ぐのはおかしいよ。
『教祖誕生』では、エイズの親から生まれた子供だけが発病して苦しんでいる場面を考えたことがあるか、という問いが投げかけられます。
なんだか『夜と霧』みたいなメッセージだと思っていたら、このたび読んだこのエッセイのなかに、こんな記述がありました。
あらゆる楽しさというか、物の基本というのは、例えばソルジェニーツィンの『イワン・デニーソヴィチの一日』みたいなものなんだ。収容所に入れられていて、一日の間にあれだけのことを考えられる。規制の中にいるからこそ、あれだけ宇宙が広がるんだね。
(教師ビートたけし より)
理想も希望も想像力も、源は個人の中にある。そこを強く思って発信すると、どんどん自分に寄りかかりたい人が寄ってくる。『教祖誕生』は、自身の状況を客観視しながら書かれた小説という側面もあるのかな。
スキル以外の要求が隠されない時代
この本が書かれた時代は、こんな状況だったようです。
オイラの友達で、ワープロの達者なねえちゃんがいる。東京のある自民党の代議士が、ワープロ打てる秘書を募集しているというから行ったんだって。そうしたら月に二十万円でいいかと言う。いいと答えたら、「めかけになったら、六十万円だすよ」と本人がまるで当然のことのように持ちかけてきた。その一言であきれ果てて逃げて帰ってきたって言うんだ。
それにしても、やることがしみったれてるというか、みすぼらしいよね。こうなると、めかけの葬儀にも堂々と出席した岸信介なんていう政治家が偉く見えてくる。
(「不退転で政治改革」聞き飽きた より)
フライデー襲撃事件後の記者会見で、愛人の定義はなんだと逆に記者に訊いている発言の背景が見えました。
いまは ”スキルのあるねえちゃん” が職能以外のものを差し出す機会が減り、おばちゃんになっても働けて、社会はかなり良くなっています。
この本を読んでいると、いまはせっかくの意見も途中で茶々を入れられちゃって、貴重な視点に触れる機会が得ずらくなっているなと感じます。