うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愚痴と悪口

ぐちとわるぐち、ってなんだかラップみたいですが、わたしはこの頃、周囲の人たちの愚痴のうまさというか、悪口や噂話やデマにならない配慮に時代の変化を感じます。

いったん自分主語の文脈に整えて感情を抱き込んで話してくれると、警戒せずに聞くことができ、なんというか、とても聞きやすいのです。

 

いやほんと、これは時代。

ネットで切り取りとか炎上とかそういう現象を見る機会が増えると、自分がそれをしていないかに敏感になりますものね。
話し手が事実と感情の切り分けをあらかじめやってから愚痴っているというのがわかると、この人はわたしの知らないところでも、いつも自己に向き合いながら頑張ってるんだなぁと想像して信頼感が増します。
なのでわたしにとって愚痴は、途中で確認を入れさせてもらえる関係であれば、悪いものではありません。狭い世界で生きているわたしにとっては社会勉強になります。

 


同世代の人々を見ていて最近思うのは、もう、「こんなことがあったんだけど、ひどくない?」という若さがないこと。(←褒めてます)
「こういう状況に対して、こう思っちゃうわたしがいるのよ」とくる。

 

わたしはできるだけ悪口を聞きたくないけれど、あまりそこへ意識を向け過ぎても好悪感情に束縛されてしまう。
30代の頃はそういう場面での斬り方が激しかったのですが、40代に近づく頃から少しずつ変わってきました。


▼かつてこんなことを書いていました

 

 

ユーモアが混じっていないネガティブな話は、ただセンスがないか、「陰気」そのもというだけ。少し我慢して聞く機会は、普通に生活していれば、まあそれなりにあるもの。

悪口はそれに攻撃性が加わったものなので油を注いではいけないし、水をかけても恨まれる。まあ厄介です。そこは心のムーン・ウォークで遠ざかるのが処世術としては賢いのかな、と思うのですが、ムーン・ウォークはかなりの練習が必要です。ウトカタ・アーサナでカカトを交互にコントロールするわけですから、そりゃ大変です。

 

 

今日は愚痴と悪口のグラデーションについて書きました。
同じ時代の空気を共有しながら「こういう状況に対して、こう思っちゃうわたしがいる」と話せる人がいるのは、とてもありがたいことです。バランスの話ができるということですからね。
今日はそれについてここに書くことで、わたしがあなたに話を聞いてもらった状態になっています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。