うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

いまここに座っているだけで、すでに聖なる存在のあなた


今日書くことは、練習者側でないとき(講師側のとき)に見える景色です。この夏に東京のヨガクラスの冒頭でお話ししたことを少し掘り下げます。
練習の始まりの時点で、もうすでに練習者は聖なる存在たりえる要素をもっていることが証明されている、ということです。ややこしい? 理屈っぽい? ぐふふ。まあ最後まで読んでくださいよ。
わざわざ練習に来ようという心と、その心を乗せて運んできた肉体が組織として活動していることがこの瞬間、証明されているのです。クラスの始まりの瞬間に、わたしはいつもそんなことを思っています。なので、そのように話しました。


意識は日々さまざまなことを反芻しながら、その波はアップダウンしながら、白寄りから黒寄りへ、また白寄りへとさまよいます。なんなら真っ黒へ近づく瞬間もある。それでも「練習をしよう」とする。わたしはたまに、自分が練習者であるときにこの事実がぐわっと迫りくることがあるのです。前を向いて生きてるねぇ、黒いのに白いねぇ、と。まるで他人ごとのように。



今月のいつだったか、仕事の業務分担の連絡の行き違いで自分を軽く扱われたように感じて内心ふて腐れることがあったのですが、その瞬間にも明日またマットに立つ前提でいるわたしが同居していました。「軽く扱われた気がしたんだね、悲しかったんだね」と、マットに立つ前提でいるわたしがふて腐れるわたしを慰めている。後者のわたしを感じるようになったのは、ものすごく最近のことです。前にもあったのかもしれませんが、ちゃんと出会っては忘れるようにプログラムされているみたい。
このことを少しは覚えておけるくらい経験を重ねることが、「練習」から「修練」への移行なのかもしれません。



わたしは、まだ西武ライオンズにいた頃の松坂投手が20年前に「自信が確信に変わりました」と言ったときの衝撃を今でも覚えています。この発言はイチローへの敬意を含んでいるという点でも話題になった発言だったのですが(イチローを抑えることができたことで、自信が確信に変わったと発言したのでした)、"自信" の存在はあったけれどそれを確信していなかった状態を認識していたということが神的であるよなぁと。こういう種類の変化は結果が出なければ発話できないもの。それでもいつか発話するかもしれないと予感しながら、磨き続けていたんだなと。



 いまここに座っているだけで、すでに聖なる存在です



というのは、練習する人を見る講師側の立場での文法。その立場での発話。
自信が確信に変わる前の松坂選手も、ほかの人から見ればじゅうぶん自信を持っていい選手であったはずです。ということです。
わたしが言いたかったことは、要約すると



 君も、松坂大輔だ!



ということ。要約しすぎましたかね。
ヨガのクラスでも野球を題材にすると脱線しがちになり、ついにはフォームのモノマネまではじめそうになってしまいます。バッター・ボックスの中の人をウトカタ・アーサナ中の人みたいに見てますから。そんなわたしなので、その日は松坂選手の話はやめておきました。「聖なる」なんてヨガっぽい表現をしたけれど、松坂大輔投手があのとき感じた変化を感じる種を、わたしたちも持っている。ということが言いたかったのでした。


できなかったことができたときには、こっそりでいいから自信をもって! その再現性が100%に近づいて確信といえるところまでいけることにあこがれて!
わたしがわりとチャレンジ性のあるメニューを多くクラスに盛り込むのは、再現性が100%になる小さな挙動をたくさん習得してほしいな、と思っているからです。
今日もまたヤングを置き去りにする事例を用いてしまいました。ヤングは想像と検索で補って、ついてきてくださいね。