うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

亜宗教 オカルト、スピリチュアル、疑似科学から陰謀論まで 中村圭志 著

ダーウィンの『種の起源』(1859年)が、神が天地と全生物を6日間でつくったという「創世記」の内容をひっくり返すものだったと言われても、そもそも「創世記」を読んでいないとピンとこない。

だけど西洋ではこれが権威衰退のはじまりで、神父や牧師に代わって世俗の専門家や国家がつくった機関が表に立つこととなり、それによって人々の心に空虚な欠落感が生まれたそうです。

そして、それを埋めようとするものが時代ごとに生まれた。

 

 

   “それ” を埋めようとするもの

 

 

スピリチュアル界隈の西洋的視点がやっと少し理解できるようになってきました。”風の時代” の前にあったのが “水瓶座の時代” で、わたしは今もCDを持っているくらい The 5th Dimension が好きなくせに、この歌の背景を知りませんでした。

 

この曲大好き! ノリノリでいこー

Age of Aquarius- The Fifth Dimension (Let the Sunshine in) 1969年

2分半ごろから急に変わるのが、クレイジー・キャッツの「ハイそれまでョ」みたいで好き♡

 

 

わたしは聖書から派生する書物に主体的に触れるようになったのが40代を過ぎてからだったので、それまでいくらスピリチュアルな本を読んでも雰囲気だけの理解でした。

 

地獄を逃れ、天国へ行きたい。その修行の場である煉獄での試練を軽減するために教会から免罪符を買う風習が生まれ、これで儲けた教会が聖堂を建てる。それを堕落と考えたマルチン・ルターが起こしたのが、プロテスタント宗教改革1517年)。

天国と地獄しかなければこんなことにはならなかったのに、煉獄なんてモードを作ったもんだから!

──こういうことも、ダンテの『神曲』を読むまで、さっぱりピンときていませんでした。

 

 

   *   *   *

 

 

 この本は冒頭からどんどん過去のユニークな歴史が紹介され、挿入されているコラムもとびきりの面白さです。末尾に著者がご自身を “亜宗教トリップガイド” と書いておられるのですが、本当にそんな感じ。

世界的に有名な探偵小説を書いたコナン・ドイルだって、当時は明らかに合成としか思えない妖精写真を信じていたし、民藝運動柳宗悦氏も1911年に『科学と人生』という本を出して「現代科学は死者の霊の存在を実証した、科学思想の画期的時代が訪れた」と主張していた。

その時代はそうだったってことって、あるんですよね。

 どうやら人間とは、事実やら「不都合な真実」なんかのために生きている動物ではないのだ。自分という存在に深い満足を感じたいがために生きている。

(第6章 アブダクションアイデンティティ より)

 

 人間は意図をもって生きている。だから世界そのもの、宇宙そのものにも意図があれば安心できる。それはファンダメンタリストならずとも心情的に理解できることだ。ビジネスの世界で成功したいと熱望している一般社会の人々も、その意図が必ずや報われる世界の秩序というものを信じたいと願っている。

 これに対して、自然界の進化は本質的に人間の思いとは無関係のレベルで進行していくドライで冷酷なものだ。だからファンダメンタリストは進化論を嫌い、一般ビジネスマンは進化論を曲解したがるのである。

(第5章 進化論の誤読 より)

 

いいタイミングでこの本に出会えました。

この本はいくつかのコラムが挟まれているのですが、これがすごく面白くて。

特に以下の二つが印象に残りました。

 

ウディ・アレンの映画を観たくなる

『Be Here Now』(オアシスじゃなくて、70年代の本のほう)の著者ババ・ラム・ダ(リチャード・アルパート)とウディ・アレンを対比させて書かれているコラムが興味深い内容でした。

 ウディ・アレンがアルパート教授と違うのは、そのまま無神論を売り物にしたコメディアンとして七年代くらいからヒットを飛ばすようになったことである。(中略)信仰や無神論をめぐるネタも豊富で、やがてその洞察の鋭さから真剣な評論の対象となる大物監督の一人となった。

(コラム7:真逆を行った二人のユダヤ人 ── ラム・ダスとウディ・アレン より)

ファッションや音楽を楽しむおしゃれ映画としてしか観ていなかった『アニー・ホール』『ハンナとその姉妹』『アリス』『恋のロンドン狂騒曲』をこの視点で観たくなります。

ダイアン・キートンのファッションもまた観たいし。(近年の映画『Book Club』が素敵でした)

 

 

隠キャ的思考は世界共通、という視点

なんでも真理は似ていると思いたがることについて、著者は【神秘思想を比較する?──井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』】というコラムでこのような書き方をされています。

 どうやら井筒は、東西の神秘思想に似たところがあるのは、いずれも世界の真相に触れているからだと考えているようなのだが、私にはむしろ、いつも内に引き籠って自己と世界とを対峙させることだけを考え、物理や社会という外界に興味を示さない神秘思想家の考え──というか独り言──が文化の違いを超えて似たものになるのはむしろ当然ではないかと感じられる。

クレヨンしんちゃん」が海外でもウケるのは、ああいう生意気な子供のふるまいって似てるという証左で、子供の純粋世界の共有です。これも、いわば子供の世界の真理。

自分は神秘の恩恵の中にいると思いたい脳の脆弱性について、この本ではフロイトユングについても冷めた視点で語られ、フロイトの売り物が性だとすれば、ユングの売り物は神話である、と書かれていました。

 

 

   *   *   *

 

 

 わたしがこの本を読みながら考えたことは、物語を権威のように感じる思考回路が人間には共通してあって、自分自身も同じように物語を紡げるならば安心できる。ほんの少しでも経験記憶さえあれば、こじつけでもそれを語る際に脚色・捏造して自分語りができる。

だけど冷静に自分を見てみれば、それをしている自分を見てむなしく感じる存在も同居している。

このむなしさを感じる能力をポジティブな視点に変えていかないと精神が病む。

 

「そのくらいにしときなよ。それより The 5th Dimension で踊ろうぜ☆」と自分自身をゆるめる存在もまた自分の中に居てくれないと困るのです。