これからの人生の課題を認識させてくれる本に出会いました。
私たちはほんのわずかな不快に耐える能力すら失いつつある。皆がいつも「今ここ」から気持ちを逸らしてくれるもの、楽しませてくれるものを探し求めている。
(第2章 苦痛からの逃走/退屈することの必要性──ソフィーのケース より)
前半でさまざまな中毒の事例が挙げられ、後半から “この報酬の溢れる生態系の中でどうやってバランスを保って生きていけばいいか” の核心に触れていきます。
この本はヨガの本ではないけれど、著者自身が他者を通した自己の振り返りをされていて、そこがサラ・パワーズさんの陰ヨガの教科書と似ています。
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著者は精神科医で、依存症の問題や薬が役立つのかということ以上に、以下に悩み続けてきたそうです。
向精神剤を服用することで、人間性の本質的な部分が失われてしまうとしたら?
(第6章 壊れてしまったシーソー?/シーソーを水平に戻すための薬? より)
この “失われる気がする感覚” は、わたしも意識するところです。
自分自身の性格に疑いがあっても、自分が自分にどんな嘘をつきたがっていたかを誰かと共有できた瞬間に、自分の純粋性を感じる。この自信の源泉に気づくには勇気が必要です。この本の示す結論は簡単なことではないけれど、事実だと思う。
これは10年以上前のことになりますが、わたしがインドでヨガの呼吸法を習っていた頃に、先生から「マインドレスなマシーン状態でやったらそれはヨガの練習じゃない」と説明されことがありました。
強く記憶に残ったので、もうひとつのブログに記録しています。(参考)
まさにそれと同じ文脈で、この本の著者も「マインドフル」と「マインドレス」に言及します。
マインドフルネスとは簡単に言えば、自分の脳がやっていることを観察する力のことだ。脳が何かやっている間、それに対して判断を一切せず観察する力。これは本来は奇妙だ。脳を観察するために私たちが使う器官は、脳そのものなのだから。変ですよね?
(第4章 ドーパミン断ち/「マインドフルネス(mindfulness)のM」より)
やめること自体は彼にとって難しいことではなかった。次にやるべきことを見つけることが大変だったのだ。やめた後、薬物で隠されていたありとあらゆるネガティブな感情が押し寄せてきた。悲しみ、怒り、恥ずかしさが感じられていないとすれば、彼は何も感じていなかった。それはネガティブな感情よりも悪いことだったようだ。
(第7章 苦痛の側に力をかける/マイケルのケース より)
自分で自分の感情を覆い隠していない「退屈」に耐えるトレーニングがマインドフルネスなのだと、今ならわかります。退屈のなかで見えてくる自分自身を見るのがつらいから、小さな不満を見つけ出してはそこに記憶を加えて料理して物語を作る。退屈すると台所に立ちたがる自分に気づかされるのがマインドフルネス。
わたしはその苦行の先にあるものについてこのように書かれた第8章に感動しました。
まず、徹底的な正直さは自分の行為についての自覚を促す。第二に、親密な人間関係を育む。第三に、正直な自分の物語ができるので、今現在の自分にだけではなく、未来の自分にも説明責任が果たせるようになる。最後に、真実を語ることは伝染するため、将来の自分や別の誰かが依存症を発症するのを防ぐことにもなり得る。
(第8章 徹底的な正直さ/マリアのケース より)
この本にある「マリアのケース」は、わたし個人が立ち向かってきた課題と強くリンクします。
この本の持つ力は、訳者あとがきにあった内容が本当にその通りだなと思います。
人生は不完全である。自分も不完全であるが、守ってくれるはずの親が不完全なのは困る。その犠牲になっているという考え方から、責任者の立場に考えを変えることは大変だ。しかし、その大変なことをやってみたらこんな発見があるとレンブケは伝えているのである。
終盤に、著者のレンブケさんが6歳の娘に対して行なった判断とエピソードが書かれていました。
娘本人が自分のリズム感の無さと音痴に近い状態に気づき、才能がないことを親子で認めた流れ、認めるチャンスを逃さなかった著者に拍手を送りたくなりました。
親子間での連鎖のカラクリが紐解かれ、それを自分の所で食いとめた。この実践の瞬間に感動しました。
他人をサポートをするって大変なことです。
サポートする側は、相手が精神を守るために張りたい「見栄」にどこまで付き合うかという判断をやり続けることになるから。
著者は薬の役割について悩み続けてきたから、ここまで踏み込めたのでしょう。だって薬がなかったら、サポートする人が先に倒れちゃうのが現実だもの。
現代に蔓延する「情報開示ポルノ」の問題にも触れていて、自立と成熟について鋭い論考を含んだ良い本でした。
▼印象に残ったトピックへの感想を別途後日書きました