うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

書けるひとになる! ― 魂の文章術 ナタリー・ゴールドバーグ著/小谷啓子(翻訳)

このブログを毎週読みに来るような人は、この本をヨガと瞑想のエッセイとして読むと、ユニークでちょっと辛口の笑いに触れながら自己を振り返ることができます。
食べて・祈って・恋をして』を読んだ人は、あれよりさらに前の時代(70-80年代)のアメリカの人々の "不安定な精神をコントロールすること" への関心を存分に感じることができます。


この本はヨガの本じゃないのに、「モンキーマインド」という言葉が巻末の著者インタビューに三回も出てきます。著者(+訳者)が訳すに、モンキーマインドは「せわしない心」。
著者はかつてヒッピーで、1976年にナロパ・インスティテュートでアレン・ギンズバーグに師事しています。ええ、そうです。ガチなんです(笑)。
中盤ではチョギャム・トゥルンパの言葉の引用が一度あり、まえがきではラマ・ファウンデーションで創作ワークショップを行った経験について触れられ、ババ・ハリ・ダスの言葉の引用まで出てくる。

 

そんなガチな人ではあるのですが、ユーモアのセンスがなんとも素晴らしく、この本は全米で100万部超え・14カ国語で翻訳されたロングセラーとなったそうです。

2019年に書かれた訳者のあとがきには、この本がアメリカの大学の「国語」の授業でいまでも使われているとありました。

 

この本は、自分に向き合うことから頭の良さそうな口ぶりで逃げようとするマインドの描写がいちいちユニークで、どんどん次の話を読みたくなります。『ハエと結婚するなかれ』などは傑作の域です。

どの章も基本的にちょっと辛辣です。

 材料なしで熱だけでケーキを焼こうとする人がいる。熱はホカホカしていい感じだが、調理が終わっても人に食べてもらえるようなものはほとんどない。抽象的な文章がそのよい例だ。
(ケーキを焼く より)

「毎日書く」という規則をちゃんと守っていても、ちっとも上達しない人がいる。そういう人たちはただ従順なだけ。”いい子ブリッ子” の生き方だ。その気がないのに規則にただ従おうと一生懸命になるのは、エネルギーの無駄使いというもの。
(いい子ブリッ子 より)

文章を書くのはエゴと向き合うことだけど、それを避けながら書く方法はいくらでもある。そこに対して5回に1回くらい鋭くツッコミを入れながら、それを乗り越える方法を伝授する。なんともいい塩梅です。

「いい子ブリッ子」という翻訳に時代感があるのも、なんだかニヤけてしまいます。でもこれに代わる表現って、ないといえばないんですよね。

 

 

『内なる編集者とのトラブル』を読んだ時には、まるでエリザベス・ギルバートの文章を読んでいるような錯覚に陥りました。前半を紹介します。

 ものを書くときに、自分の中の ”創造者”(クリエイター)と ”編集者”(内なる検閲官)を切り離し、創造者がのびのびと呼吸し、研究や表現ができるようなスペースを作ることがたいせつだ。編集者がやかましくて、それと自分の独創的な声とを切り離せないようなときには、とりあえず腰をおろして、編集者の言っていることを書き出してみよう。言いたいだけ言わせてやるのだ。「おまえはばかだ。おまえにものが書けるなんて誰が言った? おまえの書くものは気に食わん。おまえは最低だ。恥さらしだ。なにひとつまともなことが言えないばかりか、綴りもまちがえる……」。おなじみの台詞(せりふ)じゃありませんか?
(内なる編集者とのトラブル より)

わたしはこの本を、文章ではなくイラストを描く際に強く感じます。文章のときには創造者と編集者が干渉してこないのですが、イラストを描くときはずっとこの存在にいじめられ続けてきました。それが、今年やっと彼らの存在を遠ざけることができるようになりました。

心のなかのこういう存在について、わたしは『食べて、祈って、恋をして』の16章をよく思い出すのですが、そのはじまりは、こんな書き出しです。

 イタリアに来て十日が過ぎ、ついに “憂うつ” と “寂しさ” に居場所を突き止められた。楽しい学校の一日が終わり、夕方のボルゲーゼ公園を散歩しているときだった。

この物語はここからものすごい精神の下り坂の描写を読まされるのだけど、それを面白く文章化する方法をライターは苦しみを乗り越えて体得しているんですよね。
これがただの自虐で終わると、結局は ”いい子ブリッ子” が大股で歩いてみたくらいのものにしかならない。

 

この『書けるひとになる! ―  魂の文章術』は、何年かヨガや瞑想をした後で『食べて、祈って、恋をして』を読み、そのおもしろさに感嘆した人にとっては(=わたしと同じ順番でこの本に出会った人には)、なぜあの作品が多くの人に届いたのかがわかる、心の種明かし本のように読めます。
エリザベス・ギルバートはこの本の影響をものすごく受けていると思うのだけど、これはあくまでわたしの推測です。