うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ 橋迫瑞穂 著

少し前に『占いをまとう少女たち』を読んで、なんとしっくりくる分析だろう!と感動し、著者に信頼感を抱き、この本も読みました。
わたしのように出産をしていなくても、身体の性が産む性で、そことスピリチュアリティが関連づけて語られるときには、その対象となります。産んでも産まなくてもややこしい。

この著者の分析は、出産を推奨する人たちのそれぞれの主張がどこにフォーカスし、なにを敵視し、どこを避け、あるいは見ないことにしているか。そしてバラツキはありつつも共通する社会背景の影響を見ていきます。

 

社会的に不利を被ることになる女性が、どうやって人生の選択をやり過ごすか。そして、産む選択をした人が関わることになる医療制度と助産婦の関連性についても触れ、漠然とこんがらがっていた「女性の身体性についてのスピリチュアル情報」とその拡がりの仕組みが終盤で整理されていきます。この流れはとにかく圧巻です。

 

 

さて。

わたしは「女性」で「ヨガをする人」です。
このブログを書き始めた頃からインストラクターをしていたので、個人の興味の有無に関係なく、この15年以上の間に以下の情報を何度も目にしてきました。

 


  子宮系・胎内記憶・自然なお産

 


それをヨガと紐づけて語ることがなかったのは、"たまたま" です。わたしがヨガを教わってきた先生たちが、いずれもインド的ビジネス志向のインド人男性講師だったので、女性主体で紐づけて変換することを、なんとなくやってはいけないことのように思ってきました。

実際のわたしはそんな感じだったのですが、ヨガに特化したブログを書いている女性インストラクターというだけで、会ったことのない人からさまざまな情報系のお誘いを、30代の頃は特に多く受けました。

 

なのでこの本で紹介されているさまざまな推進者のとんがった主張にはどれも既視感があり、アイナ・メイ・ガスキンというカリスマ助産婦の存在や、河瀬直美監督の映画『玄牝』を知って、へええと思うことはありつつも、なんだか馴染み深さすら感じる。個人的にはそんな感覚を持っています。

 

 

この本は第五章から、欧米と違って日本ではスピリチュアリティが保守的な「女性らしさ」と結びつく傾向が強いことに着目し、以下の二人の論点比較で掘り下げが進んでいきます。

この第五章が、かなりためになる内容です。

読みながら、わたしはある経験を思い出しました。昨年このブログでやっと布ナプキンを使い始めたことを書きましたが、わたしの場合は移行までが大変で、その間に複雑な思いもしました。
ヨガの知人から ”まだそっち側にいるの?” という顔をされたことがあって。それが、ぎゃーん出血!というタイミングで「ナプキン持ってたりしないかな?」と助けを求めた時だったので、そこで「やさしいと親切は同じじゃない」ことを学んだ、そういう経験があるのです。

これについては川上未映子さんの小説『すべて真夜中の恋人たち』を読んだことでいったん成仏していましたが、この本を読んだらもう一度成仏しました。

自然と実利のバランスの取りかたが分断を生む流れを説明するのって、けっこう難しいと思うのですが、それをこの著者は第五章でみごとにやり遂げています。

 

 

最終章では、鋭い指摘が二つ書かれていました。
(以下いずれも第六章 妊娠・出産のスピリチュアリティとその広まり/他者・家族・国家 より)

  • 「胎内記憶」も「自然なお産」も、こどもが聖性をまとった存在であることが示され、愛しい存在であるとともに、母親自身を聖なる〈母〉へと高める役割を与えられ、対照的に男性の役割が希薄になっている。
  • 同じく希薄化されているものとして、女性自身の元の家族、特に実母の存在がある。「スピリチュアル市場」が示す妊娠・出産のコンテンツからは自身が〈母〉となる中で現実の母親のイメージすらも棄却されている。「昔の女性」が理想として設定されているのも、この点と無関係ではない。


わたしは出産や子育ての話題に限らず、10代の頃から ”同じ女として〜” というフレーズを怖いと感じていて、もう少しセグメントされた枠内での共感やアドバイスじゃないと、感謝の気持ちで引き受けるのは総量が多すぎてしんどいと思ってきました。

出産をすると、これが “同じ母として〜” になり、濃くて重くなる。もう逃げられない感じがする。「○○県民あるある」みたいなユルい枠ならいいのだけど、「母として」をキーにした絶対的リスペクトの系譜に足を踏み出すのは、かなりのプレッシャーです。

でも出産するとなれば、経験者からの知恵は確実に絶対に必要。だからこそ、そのプレッシャーを回避して「昔の女性」を理想として設定したくなる。そんな現代のスピリチュアルお母さんたちの気持ちは、その道を選ばなかったわたしもよーーーくわかります。

感謝しなければいけないと思うほど排他的になる、そういう現実の精神的過積載に風穴を開けてくれるのが、「なんか知らんけど昔の女性」とか「なんか知らんけど外国の女性」とか、「いま生きているブッ飛んだ思想の女性」だったりするのは、なんかわかるんですよね・・・。

 

 

この本はこのように丁寧に外堀から埋めていって、一筋縄ではいかない出産の環境全体の問題を示します。
第六章の「医療との関係」というパートでそれが語られます。

今日の医療制度では、助産婦は基本的に医療行為が認められておらず、産院を開設する場合でも医師や医療機関への嘱託が義務付けられている。そして、難しい出産の場合には病院に妊婦を搬送する義務があるなど、助産婦が関与できる範囲には制限が課せられている。
 そのなかで、医師と異なる立場にあることをアピールしつつ、独自性を押し出そうとした助産婦が注目されてきた。それが、代替療法の積極的な導入につながったりしている。

ここからその現場を分解し、著者は「産科医療そのものにスピリチュアリティとのつながりを持つ素地が培われていると考えられる」と、この説明を締めくくります。
心細いのはつらい、励ましてもらいたい。そしてリスクを避ける準備もできた状態で産みたいと思うのは当たり前で、そうなると "スピリチュアリティ" がちょうどいいところを埋めてくれるんですよね。

 


この著者は時代背景を含めた読解力が高く、かつ、意地悪な深読みをしません。コンテンツの共通性から読み取れる要素をまな板に乗せる時に、それを支持する人を見下さない。研究者として安定した態度をとっています。
こんな一文がありました。

「スピリチュアル市場」での妊娠・出産に関するコンテンツから透けて見えるのは、社会に対して前向きに諦めようとする態度だとも言える。
(第六章 妊娠・出産のスピリチュアリティとその広まり より)

正しいとか間違っているとか詐欺だとか思考停止だとか、そういう話じゃないんですよね。
なぜ必要とされてきたのかというところに目を向けて、必要とする人の性質は掘り下げない。この態度は、とても大切なことです。


いまこの時代にこのようなまとめをした著者に、わたしは拍手喝采
人間としてやさしいとか誠実って、こういうことだと思います。