うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

お目出たき人 武者小路実篤 著

少し前に画家・中川一政さんの随筆を読んで、話によく登場する作家の小説を読みました。

わたしはこのブログをはじめる前に(たぶん20年以上前に)『友情』という小説を読んだことがあって、ものすごく面白かったことを記憶していて、だけどその頃は「この話を面白く感じたのは、どういう感情なのか」という不安がどかーんと前面に立ちふさがる、そんな思考をしていました。

 

 

わたしは10代20代の頃、自分は権威者の言うことが理解できないことが多いから、有名な作家の文学は読んでも理解できないだろうと思っていました。

それでも大学には進みたくて、高校生の時点で当たり前に「大学生になるためには実技試験の学校しかない」と思い、デッサンを反復練習して芸術大学に入りました。センター試験というものがよくわからず、マークシート=ギャンブルのように感じました。

国語も数学も暗記物も、自分は漠然と必要な点数を獲得できないだろうと思っていました。

 

 

── 20代の頃に『友情』を読んで面白かった記憶があります。

内容は覚えていないのだけど、この時の感覚だけ、よく覚えています。

この感覚はなに? 自分には有識者ふうの人たちが話すことはわからないはずなのに。と思いました。

 

 

そして中年になりそんなことすら忘れた先日、古本屋さんでこの『お目出たき人』を見つけ、気になって買い、夢中で読みました。やっぱり面白い。面白すぎる。

武者小路実篤は、わたしに「もしかしたら自分は頭が悪いわけではないのではないか」というポジティブな疑いを与えてくれた作家だったのでした。

 

 

この『お目出たき人』は、まさに学生時代のわたしそのもの。思い込みで生きています。

序盤から「自分は女に飢えている」というフレーズが頻繁に登場するのですが、それは過去のわたしの「自分は進路の選択肢に飢えている」という思いそのもの。

これじゃないかと的を定めたら、その対象に疑いなく向かっていきます。しかも、時間をかけて。

 

 

この小説は、26歳の男性が近所の女学生をその対象として意識を向けていくので、いま感想をネットで検索すると半分以上の人が「ストーカー」というフレーズを出します。

まあそうよね。反射的にそういう感想を抱くのは、現代人としてよくわかる。

 

 

だけどその意識を向ける対象が「人」でない場合はどうか。

かつてのわたしが思い込みだけで進学したように、対象に向ける心は、若い時ほど大きなエネルギーになります。

この物語の主人公を嘲笑しながら読む人が多いことを著者はそもそも想定していて、だからタイトルが『お目出たき人』なのだけど、『お目出たき人』でないと個別のことはできません。

 

 

 

  個別のことをする

 

 

 

他の人がどうしているかを、この主人公は全く見ません。

イタいだのキモいだのストーカーだのと言われようが、わたしはこの主人公を結婚相手として理想的な男性と思うのだけど、そういう感想は見当たりません。

わたしがこの主人公を理想的だと思う理由は12章にあります。

 

 

ただ、13章は最悪です。こらあかん。そりゃ成就しない。

わたしは現代ではいちばんあなたに同情的な女性読者かもしれないと、12章まではそう思って読んできました。だけど撤回。撤回撤回、てっかーい!

 

 

あなたの思いを受け止めてくれるのは神しかいない。

そうか。神は人間のエネルギーの調整弁として存在しているのか。

 

 

そんなことは全部、武者小路実篤はお見通しだったのか。

付録に収められている『空想』という短編も面白くてねぇ。

この面白さはクセになる。なるわ。読めてうれしい。すごくうれしい。