うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ペスト カミュ著/宮崎嶺雄(翻訳)

恐れるべき対象そのものを感じる力がどうにも沸いてこない。変化し続ける状況に疲弊するだけでめいっぱいだよというわたしのような人は、健康のためにこの本を読むとよいでしょう。わたしは実際、この本をちまちま読み進めていた3週間がとても貴重な認識のトレーニング期間になりました。
この物語は主張がわかりやすく存在しないところが魅力で、いくつかの太い動脈はありつつ、静脈も毛細血管も通ってじわじわじわ…と進んでいく。


フィクションのはずなのに、エピソードのなかには日本の出来事と重なることが書かれています。こういう小さなことも、知らないだけで世界中で起きているのかも。

ある朝一人の男がペストの兆候を示し、そして病の錯乱状態のなかで戸外へとび出し、いきなり出会った一人の女にとびかかり、おれはペストにかかったとわめきながらその女を抱きしめた、というようなうわさが伝わっていた。
(2章より)

物語の中でこのうわさ話をしている人物は、ペストの流行によって生きやすくなっている。全員がペストに恐れおののいているわけではない。そこにリアリティがあります。そしてこの抱きつき事件は、いまの感覚だと「俺はコロナ」と言って行動してネットニュースに載る人と重なります。

 

現状を嘆く者同士の間で起こる、ひとたび感情の話をしたとたんにコミュニケーションがぎくしゃくする状態についても、著者は以下のように淡々と綴ります。

好意的であろうと、反発的であろうと、その返事はいつも的をはずれていて、結局あきらめるよりしようがなかった。あるいは少なくとも、沈黙が堪えがたく思われるような人々の場合など、他人が真の心の言葉を見つけ出せない以上は、彼らも初めから観念して売りものの言葉を採用し、自分もまたあり来たりの形式で、単純な叙述や雑報や、ある点で毎日の新聞記事のような形式で話すのであった。この場合にもまた、最も真実な悲しみが、会話の陳腐な語法に翻訳されてしまうことが通例となったのである。
(2章より)

この「ペスト」という小説は、登場人物たちの判断から根本思想を見つけていく本筋以外にも、目に見えないものに対峙する人間の慣習のようなものを、慣習というものはありえないのに、その心理の最小公倍数を細かな単位で書き洩らしません。
たとえば上記の引用にある心理状態は、知人がSNSでちょこっと自身のコメントを添えて報知してくる情報に対して「頼んでもいないのに池上さんみたいにわかりやすくしてくれたりして…。(もやもや…)結局のところ、この人さみしいのね暇なのね」とわたしが一瞬こねくり回す、あの黒い気持ちのきっかけでもある。

深いところで静かに起こっているディスコミュニケーションも、こんなふうに庶民の日常のありさまとして淡々と書かれることで、わたしは気持ちが救われました。

 

この物語のなかで、登場人物のうちの半分くらいが帰属意識の再構築をする様子もとても印象に残っています。
ここは本来の自分の居場所じゃないとか、自分はあなたたちとは違って帰る場所があるとか、そんな姿勢でいま居る場所から意識を逸らして、ついでに自分と向き合うことも後回しにする。こんな態度が、自分にとっても日常であったと思うから。

この物語は、他人の心の変化を互いに見守る人間関係に何度か強烈に胸をつかまれます。だれも「あなたはこの前までこういっていたじゃないか。ダブルスタンダードだな」と詰めることをしない。宗教者が能動的運命論などという、よくよく聞くとトンデモな思想の先鋭化に走っても、そして自らその運命にからめとられても責めない。主要人物たちが、自分の意識に敏感な態度を保ち続けます。「それみたことか」も「ざまあみろ」もないので安心して読み進めることができます。


登場人物の中にひとり、ペストで死亡した後に第三者からこのように回想される人物がいます。

「あの人は、自分が何を望んでるか、ちゃんと知ってる人だったな」

記憶だけじゃだめで、そこには想像力もセットになっていなければ実用の知識にはならない。だから望むことの言語化や目標が必要なんだということを、生きざまを通じて教えてくれる人物。
この人物と、あまりにもシンプルな「まず第一に健康」という信条を貫く医師の関係、そしてこの二人の間にあるものが伝染していく様子は、友情と言ってしまったとたんに陳腐に感じるほどのなにか。


2020年5月現在で感じたりニュースで目にする、あたかも個人的感情などもたぬ者のようにふるまうことを余儀なくさせられることも、アルコールに溺れる人が増えることも、疫病の増大とともに道徳も拡大されるということも、狂った浄化目的で放火事件が起こることも、この小説の中では淡々と回想されています。フィクションのはずなのに。

この物語の世界の中にいるほうが、現実の情報社会の中にいるよりも今はたぶん健康的です。

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)