うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

“動じなさ” と “無関心” の中間を照らす鋭い教え/『ヨーガ・ヴァーシシュタ』第1章の再読

朝のヨーガ・ヴァーシシュタ&瞑想の習慣を、新年からまたはじめています。
今年は再読なので、第1章から教えを読むときの自分の視点が変わっています。
初回よりもおもしろく読めます。というのは、この聖典の「設定」の妙味が少しわかるようになっているから。
(今日の続きは、いま初回読書中のかたは読まないほうがよいかもしれません)

 


『ヨーガ・ヴァーシシュタ』の第1章のはじまりは、動じないように見える状態と、無関心の中間をごりごり分解していく内容です。

二度目に読むと、そもそもそういう書物であることを序盤ではっきり予告しているのがわかる。「王子、それ鬱なんじゃん?」と周囲がザワザワするところから始まっています。こういうのが再読の驚きであり、楽しみでもあります。

 

これは映画を二度目に観たときに、「あれ?!  序盤から伏線ありありじゃないの。なんで気づかなかったのだろう」と唸る感じとよく似ています。いままさに、小津監督の映画『麦秋』を何度観ても泣いちゃうのと同じ感じで、毎朝感動しています。

 

 

 それにしても、なんでこんな書物が残されたのか。

 


こういう物語が仕掛け本のような扱いをされずに伝えられていくところに、インド思想の空恐ろしさを感じます(いい意味で)。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』については、年末に以下のふたつの書物から参考情報を得ています。

アドヴァイタ教義の熱烈な敷衍(ふえん)のために『ラーマーヤナ』を土台として改作した、12もしくは13世紀の金字塔
(「アシュターヴァクラ・ギーター」序文より)

『ヨーガ・ヴァースィシュタ』は、八五○年頃に原形が成立した作品で、古典叙事詩ラーマーヤナ』をシヴァ派的、シャークタ派的な不二一元論に基づいて改作したもの。
(『宗教詩 ビージャク』訳注 ラマイニー 八・五より)

 

いうたら古典の二次創作なんですよね。それにしても、よくこんなふうに書くもんだ。

動じず安定しているかのようでいて実は無味乾燥化しているだけの自己の問題。ざっくりとした精神論の日本教育で生きてきたわたしに、この教えはとにかく新鮮です。

責任を取りたくなくて、やらない理由を拾い上げてうじゃうじゃ言ってるアルジュナをクリシュナがあの手この手で引き上げる『バガヴァッド・ギーター』とはまた違う趣で、ラーマがかなりめんどくさい。こんな人が職場にいたらやだわーなんて思うのだけど、こんな自分もあった、あった!!! とも思う。

第1章を再読し、わたしはこの書物をそんなふうに捉えています。