うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「探求者の心構え」を読んで、無執着にもレベルがあると知った(ヨーガ・ヴァーシシュタ 第2章)

今年のはじめから『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を再読しています。

第2章は短いのですが、第1章でこの世の無常に打ちのめされたラーマがそれを見事に言語化したところから、その勢いを引き継いでのスタートです。


第2章冒頭の「シュカの物語」は直後のラーマとヴァシシュタの関係性を予告する喩えのようになっていて、知識は得たけれども自分には確証がない。この感じはなんなんだ!と葛藤を爆発させるラーマに、ヴァシシュタが「あなたは大丈夫。あそこまで自分で見事に語れたのだから、いけるから信じなさい。まあ聞きなさい」と、このような感じで進んでいきます。

 

その励まし説法のなかに “低いレベルの無執着” が示されている箇所がありました。
思わず二度読み三度読みせずにいられない内容です。

 ラーマよ。あなたのハートの中に純粋な識別による最高度の無執着が生じた。そして、その無執着は環境を原因としたもの、あるいは極端な嫌悪感から生まれたものよりも優れている。そのような無執着は間違いなく神の恩寵によるものだ。この恩寵は、無執着がハートの中に生まれたその瞬間、識別心を成熟させるのだ。
<26 より>

無執着には「環境を原因としたもの」と「極端な嫌悪感から生まれたもの」があると。
前者は、その存在を知らなかったために、あるいは隔離されていたために執着しなくて済んでいた文明や依存物質が該当しそうです。


それよりもわたしが思いを巡らせたのは後者でした。
「極端な嫌悪感から生まれた無執着」は自分にとって何をさすか。
記憶から消してしまうとか見ないようにするとか、存在しないものと思うとか、えいやっとやめちゃうとか、そういうこと? 受験の判定待ちの期間にそれを気にかけないために遊びに行くとか、そういうこと? ちがうか。

「極端な嫌悪感」には、強い悲しみによる恨み憎しみも含まれるだろうか。それを自己に紐づけるしんどさから離れるために、すべてを捨てて強い牽引力のある宗教教団へ出家するような、そういう気持ちを指すだろうか。

清濁併せ吞みながら前に進むために「いいことばかりじゃない」「いろんな人がいるから」と割り切るあの諦念も、嫌悪感から生まれた無執着になるだろうか。

 


『ヨーガ・ヴァーシシュタ』という書物はこのように、前へ進んでからまた戻らずにいられない。ほんの数行で深い内省へ導かれます。

 

 

「無執着」についてはインドで受けたティーチャー・トレーニンングにとても印象深いトピックがあって、数年前にもうひとつのブログに書きました。

こんなふうに心のことを掘り下げるのかと刺激を受けた思い出です。