うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

注文の多い料理店 宮沢賢治 著

ベジタリアンの友人がこの本を読んだ感想を読み、わたしも読みました。もともと気になっていたのと、友人の視点とわたしの視点の違いも楽しみたくて。
子供の頃に読んだ記憶は、もうほとんどありません。わたしはいま、この物語のどこに着目するのか。自分のことなのに他人の読書を後ろで見るかのよう。まるで占いのよう。わくわく、ドキドキ。

で、どうなったか。

 

 

わたしは「自分は歓迎される価値がある」と思える人の思考がコミカルに描かれていると思いながら読みました。
ハッピーな話ではないということだけは覚えていたので、その自己肯定感はどこから? というツッコミが止まらない。

「こいつはどうだ。やっぱり世の中はうまくできているねぇ、きょう一日なんぎしたけれど、こんどはこんないいこともある。このうちは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」

この「やっぱり世の中はうまくできている」のところで「やっぱり」と考えるご都合主義的な自己肯定感は若さか。いや、ちがう。直前までの不安に対する裏返しでこういう言葉が自然に出てくることって、ある。年齢を重ねてからのほうがやっている気がする。年齢を重ねると世の中を知ったような口で語るようになるから。

そういう時、同時に自分はバカなんだろうなと思ったりする。そう、まだその理性はある。ひとりだとこんなふうに制御できるのに、仲間がいるとできなくなる。

これはとても人間らしい知性の失いかた。赤信号も、みんなで渡れば怖くない。

ぎゃー。

 

 

でもよくよく読んでみると、この人たちはそんなにバカでもない。
レストランで金属類を外すように指示された時に、こんな会話をしています。

「ははあ、何かの料理に電気をつかうと見えるね。金気のものはあぶない。ことに尖ったものはあぶないと斯う云うんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」

この時点で「ただより怖いものはない」ことに気づいていて、帰りに対価を支払う手続きをする側であることを祈るように考えている。帰れると思いたいと思いはじめている。

でも、嫌な予感はしているけれども前に進むことを止められない。

まさかこの人が自分を強姦しようとしているなんて、そんなわけがないと自分に言い聞かせながら目上の異性との食事に応じてしまう人の心理だって、きっとこんな感じだ。
あるいは海外旅行で騙されるときの、お金を巻き上げられる場所へ連れていかれるときの、あの感じ。これはフレンドシップだ、人を疑うなんて自分の心が汚れているのだと考えるときの、あの感じ。

ぎゃー。

 


読み取る力のある賢い子供は、こういう瞬間の記憶を教訓として持ったりするのだろう。
わたしは絵の猫が不気味だった記憶があって、それ以外の大切なことはまったく覚えていなかった。
話については、食べられてしまった強欲な人たちの話という間違えた記憶をぼんやりと持っていた。善悪の役割を単純化させ、書き換えて保存していた。

 


もうひとつ、この話にある要素としてあらためて驚いたことがあった。

冒頭で「換金する価値のある生き物」が登場し、その生き物が最後にも登場している。
この人たちは動物の命の価値を見積もる能力がある。
なのに自分の命の価値となると計算できなくなってしまう。

 


冒頭に書いたわたしの友人は、宮沢賢治菜食主義者だった時期があったと知ってこの物語を読んだそうです。
わたしは「農民芸術概論綱要」を読んだ時に宮沢賢治が気になったのに、そのままにしていました。思い出すよいきっかけを得ました。どうもありがとう。

 

 

▼わたしはこの電子書籍を単品買いしました