昨年出版された日本語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を今年も引き続き読んでいて、第3章はおもしろストーリーがてんこ盛りなので、各寓話にある要素をちょこっと紹介しています。
今回は「広大な森の物語」です。
この寓話は短く覚えておきやすく、しかも、自分の心を客観視するとはどういう状態かを自分自身に理解させるのに、たいへんよいお話です。
これ単体だけでも写経して手帳に挟んでおきたいくらいです。
この物語は冒頭でちょっとしたレクチャーのようなものがヴァシシュタ仙からあって、その内容に関する伝説を創造神ブラフマーから聞いたことがあるからお伝えするよ、という順番ではじまります。
冒頭のレクチャーは、ここに置くことが必然という感じではなく、以前紹介した「リーラーの物語」や、第6章に収められている「百人のルドラの物語」など、ほかの寓話と紐づいてもしっくりいく内容です。
「あるところに広大な森があった。」からが本題で、こんな人が出てきます。
千の手足を持ち、
その千手足で
自分で自分を叩き、痛がり、恐れ、走り回る人
え? なにやってんの? という人に、広大な森の中で出会うお話。
こういう人が、ぽつっぽつっと現れる。
こちらから話しかけると、敵だと思われてしまいます。
それで攻撃してくるかと思いきや、大声で泣いたり笑ったりして、それから手足を一本ずつ捨てて、死のうとしたりします。
(本文では「身体を放棄」と書かれています)
ほかにもさまざまなパターンの「自分で自分を叩き、痛がり、恐れ、走り回る人」の行為が伝えられ、ヴァシシュタ仙はラーマにこのように話します。
自分の意思で自分自身を傷つける無知な者の戯れを見るがいい。
ヴァシシュタ仙はラーマに向けて、こうもおっしゃる。
あなた自身、そのような無知と迷妄の人生を送っていたのだ。
以前も書きましたが(参考)、すでにこれまでの章で、ラーマによる鬱告白もヴァシシュタ仙による先輩の鬱告白も終わっています。第3章はそこからの展開です。
ヴァシシュタ仙はこの広大な森の中で出会う人間を例に、自責や自己憐憫を拗らせて自滅しようとするパターンのほかに、正しい理解もないうちに世俗の楽しみを放棄することでさらに苦しむパターンについても話します。
コントロールされない心の状態とはどういうものであるか、森のなかで出会う人間の描写を通して説明していきます。
他人が信用できないときのマインドや、どうせうまくいかないと想像で結論づけるマインド、思考が限定されるときの状態って、こういうことなんだなと思いながら読みました。
千の手足を持つ人の絵を想像するとちょっとおかしな話ではあるのだけど、自分のマインドが "そういうモード" に入ってしまったときに、これほどの特効薬はないと思うような寓話です。