昨年出版された日本語版の『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を今年も引き続き読んでいて、第3章はおもしろストーリーがてんこ盛りなので、各寓話にある要素をちょこっと紹介しています。
今回は『三人の存在しない王子たちの物語』です。
あるときおばあさんが小さな男の子に聞かせる話なのですが、なんでこの話を聞いた男の子がひどく感激したのか、真実や存在を扱うインドの物語に慣れていないと、ピンきません。
この物語はひとつ前の『広大な森の物語』の冒頭にある講義を読み直してから読むと、少しついて行きやすくなります。
この物語とその教えについては短い言葉で紹介する方法が思い浮かばないのですが、経験としてわたしが初めて「こういう物語の展開を楽しむインド」を感じたエピソードを紹介します。
この話も、お母さんが小さな子供に話している設定です。
ヨーガ・ヴァーシシュタの『三人の存在しない王子たちの物語』はジョークではないのですが、考えさせるという点ではよく似ていて、おばあさんが聞かせる内容にこんな部分があります。
彼らが宮殿に入ると、そこには三枚の金のお皿がありました。そのうちの二枚は真二つに割れていて、三枚目は粉々になっていました。それから彼らは九十九グラムから百を引いた分だけの米を炊くと、三人の聖者を客として招きました。そのうちの二人には身体がなく、三人目には口がありませんでした。
(87より)
インドでは「ゼロ」を「ない状態がある」と捉えます。「ないものはない」ではないんですよね。ややこしいですか。
これを「死」について考えてみたときには、どうでしょうか。
ヴァシシュタ仙はおばあさんの物語のあとに、このようにラーマに話します。
死とは、永遠の真我が時間と空間というベールで覆い隠されることでしかない。ただ愚者だけが死を恐れるのだ。
(88より)
心は自然に手に入ったものでさえその手に抱え込み、「所有者」という偽りの感覚を抱いて苦しむ。
(89より)
三人の存在しない王子たちは、自然に手に入ったもので満足しています。
「自然に手に入ったもので」という部分でわたしはバガヴァッド・ギーター の第4章22節の教えを想起しました。
たまたま得たものに満足し、相対的なものを超え、妬み(不満)を離れ、成功と不成功を平等(同一)に見る人は、行為をしても束縛されない。
(上村勝彦 訳『バガヴァッド・ギーター』)
わたしはインドのこういう物語に触れるたびに、自分がいかに「なくなったら終わり」という観念を自然に持っているかを思い知らされます。