チャ~
チャラララララララ~
ラ~ララ~
ラ~ララララララ~
(ピ~ピロピロピ)
おぉ~れぇが いたぁ~ん~じゃ
およぉ~おめに いけぇ~ぬ
わかぁあっちゃ いるぅ~ん~だ
いもぉおおとよ~
男はつらいよね。
── と思うことのひとつに、役割語のチョイスというのがあります。
「私」か「僕」か「俺」か。
男性しかいない空間で「自分は」というフレーズを選ぶときに使っているあの神経のはたらきを思うと。
そこで「おいちゃんはネ」ってわけにはいかないわけでしょ。
たいへんですよね。お察しいたします。
その点、女性は少しだけらくちんです。
女性しかいない場では「アタイ?」「ワシか?」と役割語をスパイスにし、結束を高めたりしています。
さて。
今日はそんな男性たちの話です。
こんな二人の話です。
- 「俺」という自称は生涯口にしないであろう男性
- 「僕」という自称をしたら死ぬ!くらいに今は思っている男性
彼らのヒリヒリするやりとりを小説で読みました。
海外の小説なので「ぼく」と「おれ」のチョイスは翻訳者によるものです。これが絶妙で。
「ぼく」も「おれ」もそれぞれ信念があるけれど、わたしが読んだ限りでは、「ぼく」のほうが軸がいくぶん太く見えました。
「ぼく」は自分が男性社会の中でサットヴァぶりっ子扱いされていることを百も二百も承知で、それでも「ぼくはこの道を歩み続ける」と決めています。
男性同士の結束を高めるために行う飲み会の儀式的騒ぎに、絶対に交わらないぞと決めています。
それが、こんな喩えで表現されていました。その部分を引用します。
国中がバイラヴィー・チャクラ*1を形作っているのに、ぼくひとり、酒の器を持ってその中に加わろうとしないので、皆が不快な思いをしている。国の人々は、ぼくがイギリスからの称号をほしがっているのか、それとも警察を恐れているかのどちらかだと思っている。警察の方では、ぼくに何か企みがあるので、こうやって善人ぶって見せているのだ、と思っている。それでもなお、不信と侮辱にさらされながらも、ぼくはこの道を歩み続ける。
(72ページ)
これはインドの話です。
ここで持ち出される喩えのバイラヴィー・チャクラは、ハタ・ヨーガ・プラディーピカーにあるヴァジローリー・ムドラーと似たもので、こんなふうに小説に比喩で登場するのを初めて読みました。
昔のヨーギーも、昭和のビジネスマンたちが海外で女性を買い漁りに行ったのと変わらないじゃないかと、かつてはそんな読み方もしたものです。
* * *
さて。
わたしが読んだ「ぼく」と「おれ」の話の面白いのは、この先です。
自分はそのノリを強要されても絶対に交わらないぞと決めている「ぼく」の気持ちを、「おれ」が理解しているところです。
”いまこのノリと勢いに乗らなければ男じゃない” と自分で自分を鼓舞していく「おれ」の迷いの描かれ方がみごとです。
ニキルというのは「ぼく」の名前です。
ニキルの言葉を、おれがまったく理解できない、というわけではない。だが、おれが困るのもまさにそこなのだ。おれはインドで生を享けた。果を捨てよ、という善徳の性は、毒のように血の中にもぐり込んで滅び去ることはない。自分を捨てて進むだなんて気狂いじみていると、いくら口では言ってみても、この言葉を完全に笑い飛ばしてしまうことはできそうにない。このために、最近インドでは奇妙な事態が進行しつつある。正義(ダルマ)と愛国の二つののろしが同時に、やみくもに打ち上げられているのだ。『バガヴァッド・ギーター』*2も、「バンデー・マータラム」も、どちらも必要だという。これでは、この二つのどちらも輪郭がすっかりぼけて、軍楽隊の合奏にシャナイの調べを響かすような訳のわからぬ有様となってしまうことに、おれたちは気づいていない。おれの一生の仕事はといえば、この不協和音に充ちた混乱を鎮めることだ。おれが残しておきたいのは、軍楽隊の合奏の方。シャナイ*3はおれたちをだめにするだけだ。本能の勝利の旗をおれたちの手に授けて、母なる自然、母なる性力(シャクティ)、母なるマハーマーヤー*4は、おれたちを戦場に送り出したのだ。その本能を、おれたちは辱めてはならぬ。本能こそが美しく、清浄なのだ。あの清らかなブンイチャンパの花*5が、わざわざヴィノリア石鹸*6で体を清めるために、水浴室に行く必要がないのと同じく。
(160ページ/本文では “のろし” の部分に強調点がありました)
まるでオウム真理教の教祖や幹部の葛藤のようではありませんか。
そしてわたしがここでシビれるのは、訳者が選ぶ「生を享けた」の「享」という漢字のチョイスです。
この「母国ウェーイ!」の仲間に入るか、入らないか。
入らないと決めているニキル(ぼく)は、このような思考で自己を保ちます。
とにかく、国の中に、この幻影という酒をくみかわす酒場を作る仕事には、ぼくは断じて手を貸すわけに行かない。国の仕事にたずさわろうとしている若者たちに、はじめから陶酔の味を覚えさせようとする企みに、ぼくが関わることの、決してないように。マントラでたぶらかすことによって仕事の成果を上げようとする人々は、仕事自体の価値だけを重く見るのだ。たぶらかされた人間の心の価値は、彼らにとっては無に等しい。この狂気から母国を救い出さない限り、母国の礼拝(プージャー)は、毒の供物によってなされることになるだろう。それは、母国の仕事に敵対するブラフマスートラ*7として、その胸に突き刺さるだろう。
(328ページ)
ヒンドゥーの宗教的表現がてんこ盛です。
性別に関係なく、社会生活を送っているとこのような葛藤に当たり前に直面します。
よくよく考えると何がしたいのかわからないヴィジョン・ミッションに、キャッチーなお題目が掲げられているケースはそこら中にあふれています。
これを「マントラでたぶらかす」と表現するあたりが、ヨガをしている人にとっては興味深い喩えではありませんか。
この小説『家と世界』R.タゴール著 は2009年に発表された「英ガーディアン紙が選ぶ必読小説1000冊」(Guardian's 1000 novels everyone must read: the definitive list)に選ばれたアジアの小説にも関わらず、まだ読んだことがあるという人に会ったことがありません。
日本の作家では川端康成、谷崎潤一郎、大江健三郎、遠藤周作、安部公房、村上春樹といった作家の名があり、谷崎潤一郎作品ではどういうわけか『瘋癲老人日記』が選ばれており(よりによって、なんでそれ! w)、粋なセレクトです。
このリストをきっかけに1987年に『瘋癲老人日記』がオランダで映画化されていることを知りました。安部公房の作品の中で『他人の顔』が選ばれているのも映画の人気度が影響しているのかしら・・・。
ちなみに中国の小説では『西遊記』が選ばれていました。三国志でも水滸伝でもないの。信用できすぎて嬉しい、と言いたいところですが、BBCで夏目雅子&マチャアキの西遊記がめっちゃ人気だったからでしょう。
それはさておき、この小説は長くヨガを学んできた人が読むと、とても面白いと思います。
*1:タントラ左道派の行なう、密儀。男女の修行者が輪になってすわり、酒・魚・肉・穀物を食し、性的な修行を行なう。
*2:インド古代の叙事詩『マハーバーラタ』の一節で、クリシュナ神が勇者アルジュナをさとす部分。ヒンドゥー教徒にとって最大の聖典のひとつ。スワデシ運動の思想的支柱のひとつともなった。
*3:チャルメラに似た吹奏楽器。結婚式の時などによく奏される。
*4:現象世界をあらしめる根源的な創造力。マハーマーヤーはそれを司る女神。
*5:ショウガ科の多年草。バンウコンの仲間。夏、白地に黄土色と紫色で彩られた、薫りたかい花をつける
*6:当時使われた外国製の石鹸。
*7:創造神ブラフマーの力がこもるとされる武器。『マハーバーラタ』で、勇者アシュヴァッターマーとアルジュナに授けられた。