うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

月と六ペンス サマセット・モーム 著 / 阿部知二(翻訳)


ご近所にも親戚にも友人にもまったく引け目なく過ごせる安定職についていた夫が、突然仕事と家庭を捨てた。妻は「女の存在」を疑う。
出て行った夫の目的は何なのか。この小説は、探偵のようにちょっと探りを入れてみることを依頼された別の男性の視点で進んでいきます。
現状を変えるときの周囲の反応を通して人間のエゴをグイグイ掘っていくのだけど、その掘りかたにうっとりする。描写・セリフ・比喩・内省、すべての表現にうっとりする。途中から読むのをやめられなくなります。

秘密の扱いかたも秘密の理由の扱いかたも、エグいのに上品。読んでいて気持ち悪くならないのは、なぜだろう。途中から少し昼メロ風になっていく下世話なストーリー展開に夢中になっている自分にハッとしつつ、「このお酒は上質のお酒だから、悪酔いすることはないだろう」と安心している。ここはあのマスターのお店だから、大丈夫。そんな気持ちで読書が進む。
夫が多すぎて」「雨・赤毛」の2冊を読んで、サマセット・モームには圧倒的な信頼感を持ったところなのだけど、この「月と六ペンス」でとどめを刺されました。なんなのだ、このおもしろさは!


「月」と「六ペンス」は「スピリチュアル・ワールド」と「マテリアル・ワールド」を指しているように見え、わたしなりに要約すると、「ハイジとクララ」の対比の中年男バージョン。大人が読んでおもしろくないわけがない。読み出したら止まらない。子どものころ「アルプスの少女ハイジ」に夢中になったときのように、止まらない。
初めて読んだ「夫が多すぎて」でもその要素が描かれていたのだけど、女性の情の深さと薄情さの幅の描きかたをスパイスにしつつ、あくまで男性の人生を主軸に男性原理・女性原理のようなものを掘リ下げていくのがおもしろい。
主人公の人間観察の中に、名言があふれてる…。

人間性が、いかに矛盾したものであるか、私はまだわかっていなかった。誠実な人々の中に、どれだけ気どりがあり、高潔な人々の中に、どれだけ卑劣さがあり、堕落した人々の中に、どれだけ善良さがあるか、私は知らなかった。
(11)



 「うつくしいお心です」と私はいった。
 しかし、彼女のこの申し出が、やさしい心からのものでないことは、私にはわかっていた。苦労が人間をけだかくするというのは、事実に反する。幸福が、時にはそうすることはあるが、苦労はたいてい、人間をけちに意地悪くするものなのだ。
(17)



 世の中には、場ちがいのところに生れてくる人々もあるものだ、という意見を私は持っている。偶然のことから、彼らはある特定の環境におかれることになるのだが、彼らの見知らぬ故郷にたいして、つねに郷愁を感じているのだ。彼らは、生れ故郷では他国者であり、子供時代から知っている青葉茂る小道も、遊びたわむれた人ごみの街路も、けっきょく、通りがかりに足をとどめた場所にすぎない。近親のあいだで、全生涯を異邦人として過ごすこともあろうし、また、それ以外の環境というものを知らないくせに、永久にそれになじむことができないこともあろう。みずからを密着させることができる永遠な何ものかを求めて、人が遠くはるばると出かけてゆくのは、おそらく、このよそよそしさの感じのためなのであろう。
(51)

なんというか、頼んでもいないのにいろんな角度から人肌のやわらかさと温度で抱きしめてきます。サマセット・モーム、おそるべしです。



そして追われる夫・ストリクランドのセリフというか女性観が、とにかくすごい。

これまでも彼女が本心から夫を愛していたとは、私は思わない。わたしが愛情だと思っていたものは、愛撫や安楽によって引き起こされる女性特有の反応にすぎず、それが、たいていの女の心の中では、愛情として通用しているだけのことである。蔓(つる)がどんな木にもからみつくように、どんな対象にたいしても起こすことのできる、受動的な感情なのである。世間の知恵というものは、その感情の力を認めているものだから、娘に、愛情などというものは結婚してから起こるものだと保証して、彼女を求める男との結婚をすすめるのである。それは、安全からくる満足、資産の誇り、追いもとめられる歓び、家庭生活の充足感などでできている感情であって、女が、それになにかの精神的価値があると考えるのは、愛すべき虚栄心からにすぎない。そういう感情は、情熱に対しては防御する力を持たない。
(30)

世間の知恵って、ほんとすごいのよね。愛すべき虚栄心とは、まったくほんとに。
ほかにもいろいろシビれるセリフばかりのストリクランド。やっと見つけた相手がこんな具合だから、追いかけた人も冷静になる。

私は、正義の怒りの立場を取るのには、少々気まりが悪かったのだ。正義の怒りには、つねに自己満足の要素があって、そのために、ユーモアを解する人には、ばかばかしくなるところがあるのだ。私が、自分のこっけいさも感じないほどになるためには、きわめて激しい熱情が必要である。
(32)

「妻子を捨てるとは」という正義の怒りというカードを、まったく使えなくなってしまう。
この小説の中で語られているストリクランドのセリフは、いわゆる今の時代は言っちゃダメってやつなのだと思うのだけど、読みながら感じる根っこに響くものは「サーンキヤ・カーリカー」(インド哲学のある一学派の概説書)を読んでいるときとすごく似ています。

(以下すべて41 ストリングランドのセリフ)

おれは男だから、ときには女がほしくなる。情欲を満足させてしまうと、おれはもう、ほかのことに取りかかるんだ。おれは肉欲を克服できないが、それを憎んではいる。おれの魂を、とりこにしてしまうのだ。すべての欲情から自由になって、かき乱されずに、仕事に打ちこめる日を、おれは待ち望んでいる。女というものは、恋愛のほかには何もできないものだから、それを、ばからしいほど大事にするのだ。それが人生のすべてだ、とおれたちにも思いこませようとする。じつは、とるに足りない一部分なのだ。おれは、肉欲というものは知っている。このほうが、正常で健康だ。恋愛などは、病気だ。女は、おれの快楽の道具でしかない。女が、協力者だとか道づれだとか仲間だとかいうのには、おれはがまんがならない。



女が恋をしてくると、こっちの魂までつかんでしまわぬと満足できぬのだ。弱いものだから、支配熱に狂ってしまって、それでなければ承知できなくなる。心が小さいものだから、自分には理解できぬ抽象的なものには憎しみをもつ。物質的なことにばかり気をとられて、観念的なものに嫉妬を感じる。男の魂は、宇宙の極限のはてまでも飛んでゆくが、女ときたら、それを家計簿の中に閉じ込めようとする。

物質と観念の対比を女性原理と男性原理で見せるところが、おもしろい。

そしてさらに、このあとがすごいのですが
「あんたは非人間だ」という主人公に、ストリングランドはこんな返しをします。

こういうことで話し合っても無意味なのは、生まれつきの盲人に色彩の説明をするのと同じだ

インド人か!


こういう男性原理・女性原理と重ねて示されるエネルギーのありようは、同じように画家の思考を使って示していく夏目漱石の「草枕」でも読めるのだけど、この「月と六ペンス」はもっとわかりやすく出してくる。この設定が奇跡に感じるほどのうまさ。草枕1906年、月と六ペンスは1919年。この時代の小説は、やっぱりなんだかおもしろい。
さらにこの小説は有名画家ゴーギャンの生涯の暗示を元に書かれていて、読んだ後にゴーギャンの絵を見ると、もうこの世界になっちゃう。まさかの感覚でリアル世界に侵食してくる。この本は読んだ後にいろいろ後を引いちゃって、会う人会う人にこの小説の話ばかりしていました。
衝撃的なおもしろさです。


昔の本なので、訳もいろんなバージョンで出ています。全部読み比べたい…

▼紙の本 行方昭夫(翻訳)


▼紙の本 金原瑞人(翻訳)

月と六ペンス (新潮文庫)
サマセット モーム
新潮社 (2014-03-28)


▼紙の本 土屋政雄(翻訳)

月と六ペンス (光文社古典新訳文庫)
ウィリアム・サマセット モーム
光文社


▼紙の本 厨川圭子(翻訳)


Kindle版のみ 龍口直太郎(翻訳)