うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人間の土地 サン=テグジュペリ 著 / 堀口大学 翻訳


とことん渇いた土地での経験をもとにした、実録的な小説。
過酷な状況での思考について、こんなにもありありと感じさせてくれる小説はめずらしい。まるで死にかけたような気分になる。死ぬ練習のよう。
もとがフランス語だからか、行動と態度が倒置になった文章が多いのだけど、これを倒置と感じる自分は鈍いのだろう。久しぶりに機微の細かい本を読みました。
砂漠の宗教観を、こんなにも手に取るように示してくれます。

人間の帝国の中心は、心の中にある。(「砂漠で」より)


砂漠へ近づくということは、オアシスを訪ねるということではなくて、一つの泉をぼくらの宗教にすることだ。(「砂漠で」より)

そしてあとで、水を神のように思うときは、こんな思考! という美しい表現が出てくる。

 ああ、水!
 水よ、そなたには、味も、色も、風味もない、そなたを定義することはできない、人はただ、そなたを知らずに、そなたを味わう。そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。そなたは、感覚によって説明しがたい喜びでぼくらを満たしてくれる。そなたといっしょに、ぼくらの内部に戻ってくる、一度ぼくらがあきらめたあらゆる能力が。そなたの恩寵で、ぼくらの中に涸れはてた心の泉がすべてまたわき出してくる。
(「砂漠のまん中で」より)

泉を宗教にすることと、人間が社会をつくることが、同等に語られる。

これが砂漠だ。もともと遊戯のルールでしかない一冊のコーランが、砂漠を王国に変えてしまう。(「砂漠で」より)

人がなにかに神を思うときは、その概念を自ら創りだすときなのだということが、この小説を読むとかすかに響いてきます。



「生」への執着を描く場面のリズムにも引き込まれます。以下いずれも「砂漠のまん中で」より。

ぼくにはこの動揺も、この怒りも、いつ果てるともしれないこの猶予も、わからなかった……、五秒、六秒……すると突然、ぼくらは回転の感じを、窓からぼくらの煙草を放り出し、右翼を木っ葉微塵にした衝撃を受けた。ついで虚無。あるのはただ凍りついたような不動だ。


ぼくは、静かに飛行機のほうへ戻る。ぼくは、操縦席かたわらに腰をおろして考える。ぼくは、希望の種をさがしていたのだ。ぼくは、それを見出さなかった。ぼくは、生命が差出す合図をさがした、それなのに、生命は全然ぼくに合図をしてはくれなかった。


 ああ! ぼくは安んじて眠るつもりだ、それがひと夜の眠りであろうと、または幾世紀も続く眠りであろうと。眠ってしまったら差別はないはずだ。それになんという平和だろう! ところが、彼方(むこう)で人々が発するであろうあの叫び声、あの絶望の大きな炎……、ぼくは考えるだけで、すでにこれには堪えかねる。この難破を前にして、ぼくは腕をこまねいてはいられない! 沈黙の一秒一秒が、ぼくの愛する人々を、すこしずつ虐殺してゆく。はげしい憤怒が、ぼくの中に動き出す、何だというので、沈みかけている人々を助けに、まにあううちに駆けつける邪魔をするさまざまの鎖が、こうまで多くあるのか?


 そしてぼくは、しばらく夢想に耽る、人間というものは、どうやら、どんなことにも慣れるものらしい。三十年後に死ぬかもしれないという考えは、一人の人間の喜びを傷つけはしない。三十年も、三日も、要するに遠近法上の問題にしかすぎない。
 だが、ある種の映像は忘れなければいけない……。

とにかくリズムが脳にシンクロしてくるのと、死ぬのかと思った瞬間に主述が入れ替わっては戻るこの感じにドキドキする。死ぬときは、きっとこんな感じなのだろうと思う。「しんどくないもん!」という矛盾の文体を細かく切り刻んで細長くつなぎなおすとこうなる、みたいな文章に引き込まれる。翻訳もすごい。



この物語は、僚友と最後の食糧をわかちあう経験が教えてくれたことを、読者に教えてくれます。

愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと。
(「人間」より)

この部分は、この小説の代表的な名言として語られることが多い模様(ネットの上の感想を見ました)。



奴隷の心理描写も、自分にもあるその種をつきつけられて、苦しくなる。
以下どちらも「砂漠で」より。

彼には、どの方向へ歩くこともできた、自分は自由なのだとしみじみ感じた……。ところが、彼にはこの自由がほろ苦かった。この自由が、彼に教えた、世界がいかに自分と無関係だかということが特に目立った。


 長いあいだ、偉大な恋愛を生きつづけてきた人たちが、やがてそれを失うと、自分たちの高貴な孤独な生活に倦(う)むことがある。彼らはへりくだった気持ちになって、ふたたび人生に近づく、そしてありふれた恋愛が彼らの幸福を作る。彼らには、高い位置からおりて身を屈し、安穏な暮しにはいるのが楽だったわけだ。奴隷は主人の燠を自分の誇りにするわけだ。

「燠(おき)」というのは辞書に「まきなどが燃えて炭火のようになったもの。おきび。」とありました。
へりくだる気持ちの発生源(発芽のしくみ)について書かれているのだけど、あまりに淡々とすすんでいくところが、それがあまりに日常である
ことに感じられて、苦しくなります。



冒頭にある「自分を完成すること」について、さまざまな死を意識する場面でぐいぐい問いかけてくる小説ですが、読後感が前半で語られている以下に重なって、繰り返し読むとさらに深まります。

ある一つの景観は、それを見る人の教養と、文化と、職能を通じて、はじめて意義をもちうるにすぎない。
(「定期航空」より)

ただの命でしかない肉の塊に近づくにつれて感じることも、奴隷が解放される場面を見て思うことも、同じように描かれます。そして読みながらそこで感情を動かす自分こそが、まさに概念の奴隷であることに気づく。
文字を追っている瞬間に何度も認識が迷子になるのだけど、迷っている瞬間は人間でいられる。
どのような言葉ですすめてよいかわからないのだけど、まだ読んでいないすべての人に、「ぜひ」と思う一冊。
価値観や概念を一度シャッフルされるような小説なので、年末の読書におすすめです。