うちこのヨガ日記

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菩提樹の陰 / 郊外その二 / 妙子への手紙  中勘助 著

先日読んだ「」の本気のインドっぷりに期待満々でこの本を読みました。

菩提樹の陰」という和製インド寓話と、著者の友人の娘・妙子さんとの思い出を日記形式で書いた「郊外 その二」、妙子さんとの文通を収めた「妙子への手紙」の三篇が一冊に収められています。

 

三篇には関連性があって、「菩提樹の陰」を書いているときの進捗報告のような私信が「妙子への手紙」に登場します。「菩提樹の陰」の冒頭では、もともと小さな子のために書いた童話だったがその子が大人になり母になったので書き換えた旨が述べられています。

 

菩提樹の陰

とても引き込まれるドラマ。頭のなかでインドの映像が浮かび、読み出したら止まらない。「犬」もそうでしたがまったく注釈なくどんどん進むリズムがいい。名称も慣習もインドの設定でしっかり作り込まれていて、猛スピードでいく。

 

名誉欲と愛欲のいやな絡ませかたがほんとうにうまくて、なのに美しい話でもあって、徒弟制度のなかで繰り広げられる因果応報の理不尽さなどは、なんでこんな話を思いつくやら。

そして文中に出てくる身分違いの結婚を示すガンダルヴァ婚という文字列を目にしたときに、やはりこの設定があるだけでとたんにインドらしくなると感じました。これまでに何冊か和製印度寓話を読んできましたが、中勘助の三部作と谷崎潤一郎の「玄奘三蔵」は格別。現在のように一般人がインドへ行くようになったあとでなければ言えない、群を抜いたすごさがあると感じます。

実際に行ったことがなくても、絵が浮かびがつんと心に突き刺さる創作ができてしまうというのは、どういう感覚なのだろう。才能といったらそれまでになってしまう。同じ参考テキストを読んでも、凡人が10理解するところを1000くらいの粒度で読み取れるんだろうな…。

カーリダーサの「シャクンタラー姫」が好きな人は、この物語の和製世界(中勘助の技量)に度肝を抜かれるはずです。

 

 

郊外 その二

「郊外 その二」は、現代であれば通報されそうなくらい友人の娘をかわいがりすぎのおじさんの話ですが、その判断はその子が大人になってから交わす「妙子への手紙」の読了までぜひ保留していただきたい。これ単体で通報されては困る。

それにしても、まあなんともおもしろい。二人の間に、こんなやりとりがあります。妙子さんはまだ十歳になっていない頃。

以下、中勘助おじさんとのやりとりです(十九日 より)。

妙子さんは今日はたいへん私を慕ってちっとも膝から降りない。

 「中さんいくつ」

 「十八」

 「十八にしちゃませてる」

 「ませてる同士でちょうどいい」

私は三十三なのだ。

 「こないだおばあ様とお母様で中さん嫌いだっていってた、妙子の行儀をわるくするからって」

お母様は狼狽して

 「いつそんなことをいいました」

ときめつけてもびくともしずに子供らしい誇張を加えていい気もちにすっぱぬく。

自身の年齢サバ読み事実をしれっと差し込む、このリズム! 小さな子との会話で繰り広げられる共同幻想世界の構築プロセスが、なんともリアルに描かれます。小さな子って、こういう会話ができるところが楽しいんですよね…。

わたしは自分が小学生の頃、同じ歳の従姉妹の女の子がテレビで見た「男はつらいよ」にハマって、どうしても「おいちゃんはね…」と言っておじさん設定で話したがることがありました。その頃は、彼女に寅さんスイッチが入ったらこちらも合わせるということをしていました。ふとそんな幼少期の遊びを思い出しました。

銀の匙」もそうでしたが、この作家は子供に憑依する能力が高すぎです。読んでいると催眠術にかかったように幼少期のことを連想させられる。

 

 

妙子への手紙

「郊外 その二」はほのぼのとした回想世界でしたが、「妙子への手紙」はまったく違う展開になります。妙子さんが大人になります。

最初はすべてひらがなの手紙から始まり、まだ妙子さんが漢字を書けなかった頃から時は流れ、昭和の時代へ。ご自身がお母さんになった妙子さんは、夫の度重なる海外転勤で育児ノイローゼのような状態に…。こちらは中さんの返信だけを読んでいるのだけど、ちょっともうどうにも感想が書けないほど苦しくなってくる。

菩提樹の陰」とは違ってこちらはノンフィクション。当時の女性の立場や感情のありように驚きます。「1908年生まれ、江木妙子」というタイトルで「82年生まれ、キム・ジヨン」のように読めるといったらわかるかな…。

 

最後まで読んでみて、この一冊のまとまりに驚きました。

菩提樹の蔭―他2編 (岩波文庫 緑 51-3)

菩提樹の蔭―他2編 (岩波文庫 緑 51-3)