こんなにも設定が生きる小説ってあるのかと、読み終えてあらためて驚きました。
加害者が加害者たりえる言い分と、被害者が被害者たりえる世界の仕組みが完全に合致している。被害者がただ生きるか死ぬかを選ぶシンプルな判断で物語が進んでいく。
身体が生き残るために感情を殺すということは、どういうことか。この苦しみをとことん描き、人間の性(さが)なんて言葉で逃げられない境地は登場人物を犬に変えてまで突き詰めていく。作者はとんでもないことを思いついたものです。
この物語は、見たところ五十歳前後だというバラモン苦行僧が、罪の意識を抱きながらハヌマーン神のもとへ礼拝しにやってくる若い女性に性欲を爆発させるお話です。
舞台はインドの現ウッタル・プラデーシュ州カナウジ近くのクサカという町で、イスラームのガズナ朝が北インドへ攻め込んできた時代。
著者は町名や年代以外の背景説明をせず、修行の部分は登場人物の行為やセリフに織り込まれているだけなのですが、細かい点を見てもとてもよくできていて驚きます。この小説に登場する僧の暮らしぶりは同じ10世紀前後に残されたハタ・ヨーガの教典で読む世界そのもの。シヴァ信仰のタントラや呪術の世界をずいぶん調べて作られた話であることがわかります。
僧はシヴァへの信仰を語りながら、若い女性に性交渉を懇願します。このように。
「そなたはわしに授けられた。即(すなわち)わしがそなたに授けられたのじゃ。よくよく深い宿縁じゃ。二人は切っても切れぬなかじゃ。う、湿婆がそうおきめなされたのじゃ。う、湿婆の思召しはありがとういただかにゃならぬ。夫婦の交りをするのはとりもなおさずあなたへのおつとめじゃ。道じゃ。また楽しみの随一じゃ。そなたにはむつかしいかしらぬが、そなたは平生リンガを拝んだじゃろう。あれは湿婆の陽根じゃ。それからリンガの立っている円い円はあれはヨーニというておつれあいのパールヴァチー女神の陰門じゃ。めおとの神の陰陽交合の形じゃ。それ、の、この世のものは皆陰陽交合する。せにゃならぬ。わしらは神々のお楽しみにあやかりたいとお願いするのじゃ。(以下略)」
(57ページ)
相手の女性にとってみれば「お楽しみ」の要素などまるでなく、これこそ苦行。それをわかっていながら、こんな説得を試みる。この「とりあえず言ってみる」流れがリアルでえげつない。
美しければ愛だけど、醜ければ欲でしかない。
わたしもかつてはこの物語に登場する若い女性のように、五感からの情報で自分が美しいと感じるものだけを恋とみなしてきました。でも、生殖機能のはたらき自体はそれとは関係ない。
こんな現実の突き付け方ってあるでしょうか。この物語はそこに明確な問いを立てることを可能にしてしまった。中勘助、おそるべしです。
- 作者:中 勘助
- 発売日: 1985/02/18
- メディア: 文庫